諸橋轍次 もろはし てつじ

学術

掲載時肩書東京教育大名誉教授
掲載期間1965/04/14〜1965/05/03
出身地新潟県
生年月日1883/06/04
掲載回数20 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
筑波大学
学歴その他新潟師範
入社群馬師範
配偶者再婚で長谷川正利孫娘
主な仕事群馬師範、中国留学2年(学者と親交)、東洋文庫、大漢和辞典、東京文理大、東宮職、都留文科大長
恩師嘉納治五郎(師範校長)、岩崎小弥太、坂西利八郎
人脈渋谷敬蔵、那珂通世、三土忠道、金森徳次郎、近藤正治、鈴木一平
備考直江兼続 子孫、渋沢栄一から千円の奨学金
論評

1883年6月4日 – 1982年12月8日)は新潟県生まれ。文学博士。東京文理科大学名誉教授。漢字の研究者で大著『大漢和辞典』や『広漢和辞典』(ともに大修館書店刊)の編者。青年時代、中国にも留学。この時に満足できる辞書がなかったことが、後の『大漢和』の製作に繋がっていった。1925年、大修館の鈴木一平が諸橋のもとを訪れ、巨大な漢和辞典の構想を持ちかけられる。本格的な製作の開始は1929年からだった。都留短期大学および都留文科大学の(四年制大学としての)初代学長。

1.教員になって最初の決心
大正初期に東京師範学校を卒業して、群馬師範に赴任した。しかし東京に憧れる気持ちが強く、翌年には母校高等師範の付属中学に奉職した。この在職時代ほど楽しかった時代はなく、またこれほど多くの自省反省を得た時代もない。生徒は無邪気ないたずらばかりで、悪意の計画などはただの一つもなかった。
 私は田舎から飛び出して初めて付属の教壇に立ったが、2,3日後、また行ってみると生徒は誰も彼もズンサイセンセイという。私が漢文の時間に「仁斎先生」といったときの発音のナマリを取って私のアダナとしたのであった。それに気が付いてみると、大抵の先生にアダナが付いている。ガックリ、オギョロ、ミギョロなど、それが一々その先生の風貌そのままに的中しているのである。その時私はフト考えた。こんな頭の良い生徒を相手にしてはもう隠し事をしてはダメだ。飾ったりてらったりしても何の役にも立たない。もともと自分は気の利かぬ田舎者だ。いっそこれからは地金を出して真裸でいこうと。この最初の決心が私の一生に少なからぬ影響を及ぼしたように思う。

2.大漢和辞典の編纂動機
この編纂も私の35,36年をかけて営んだ事業の一つだ。編著の動機は何かとよく人に問われた。私は中国に留学中チョッと考えたことがある。それは自分の読書生活で何にどれだけの時間を用いているかということである。考えてみると一日の三分の一か四分の一は辞書をあさり、あるいは原典の勘考をしている。これはつまらない。もし完全な原典によって完全な解釈を施した辞典があればこの労苦はいらないはずだ。 
 そして学者にどれほどの裨益を与えるかわからぬ。ところがそんな辞典はできていない。当時日本でもいろいろの辞典はできていたが、なにぶん分量の制限があって間に合わない。中国では康煕(こうき)字典はあるが熟語はなく、佩文韻府(はいぶんいんぶ)は成語は多いが解釈はない。では一つ自分でやってみようかと、おぼろげに感じた。強いて言えば、これが直接の動機になったのかもしれない。

3.東宮職の奉職
昭和20年(1945)終戦も間近のころ、首都は灰燼に帰し、私の勤めていた文理科大学もその災厄を受けていた。私は当時図書館長として焼け残りの図書を整理していたが、後の東宮大夫野村行一氏が来た。そして皇太子殿下も来年は学習院の初等科をご卒業だから、その後は多分ご学問所も設けられると思う。その節は漢学の進講を担当してもらいたいということであった。開講は1年あと、その間は準備の期間であった。新たに御用掛を命ぜられた一同は殿下に初めてお目にかかったのであるが、最初に私がお部屋にお伺いすると、殿下は極めて大きなお声で「ご苦労」とおっしゃった。その夜秋山初等科長から殿下の「綴り方」を示された。荒れ果てた東京の情景を述べられた後、これを立て直して元の姿に帰すのは、すべて私の責任だという意味のことが記せられていた。ご幼少の御心にもいろいろ老臣の深い物思いを感じた。
 中学も高等学校も殿下は学習院でご修業のこととなった。院長は、初めは山梨勝之進、後は安倍能成、東宮大夫は穂積重遠、それに小泉信三は参与として輔弼の任に当たった。やがて殿下は既定の課程を終えてめでたく学習院をご卒業になった。その時をもって私も奉仕の任を解かれた。前後6年間だった。

諸橋 轍次
人物情報
生誕 (1883-06-04) 1883年6月4日
日本の旗 日本新潟県南蒲原郡
死没 1982年12月8日(1982-12-08)(99歳)
出身校 <東京高等師範学校
学問
研究分野 漢文学
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諸橋轍次

諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年6月4日 - 1982年12月8日)は、漢字研究者で大著『大漢和辞典』や『広漢和辞典』(ともに大修館書店刊)の編者。

文学博士東京文理科大学名誉教授都留短期大学および都留文科大学の(四年制大学としての)初代学長。本人によると直江兼続子孫である。は「止軒」[1]

  1. ^ 止軒の止は、『荘子』の徳充符篇にある、「仲尼曰:人莫鑑於流水而鑑於水,…」(仲尼曰く、人は流水に鑑みること莫(な)くして、止水に鑑みる)からの引用(莊子/德充符)。「止水に鑑みる」とは、静止した水を鏡としてそこに姿をうつすことで、雑念のない虚静の心に物をうつして、その真実をとらえるという意味である。原田種成(はらだ たねしげ、1911年 - 1995年)は、「この止軒という号に先生の生き方をうかがうことができる。」と述べている(原田種成 p.109)。
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