掲載時肩書 | 三菱重工業相談役 |
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掲載期間 | 2010/11/01〜2010/11/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1936/05/03 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 高松高 |
入社 | 新三菱重工 |
配偶者 | 社内結婚 |
主な仕事 | 国産飛行機開発:零戦・YS11→MU2→MU300→B777→MRJ、三菱自動車再建、日本郵政社会長 |
恩師・恩人 | 零戦・堀越二郎、相川賢太郎 |
人脈 | (東条輝雄・矢嶋英敏)YS、久保富夫、増田信行、奥田碩 |
備考 | 私の提言、趣味:天体観察 |
1936年5月3日~)東京生まれ。59年東京大学工学部卒、新三菱重工業へ。 89年、航空機・特車事業本部名古屋航空宇宙システム製作所副所長を経て、91年同所長、92年取締役、95年常務、98年から副社長、99年から社長。 日本郵政社会長、趣味:天体観測。
1.堀越二郎先生
私は東大の航空学科に希望通り8人の一人として入れた。そこには零式艦上戦闘機、いわゆる「零戦」の主任設計者である堀越二郎先生がいた。堀越さんは、戦後、三菱重工業が3社に分割されたうちの一つ、新三菱重工業の顧問になっていた。堀越さんは実に繊細な設計者だった。私が習ったのは最初から最後まで重量についてだけだった。
いかにして飛行機の重量を減らすか。その追及が零戦の名機たるゆえんだが、堀越さんは週1回ほど講義に見えては、グラム単位で、主翼など機体の重量や重心の計算ばかりする。「飛行機は重量が命だ。小数点以下まで計算しなければダメだ」という堀越さんの言葉を覚えている。そこまで徹底しなければならないのだと思い知らされた。
2.国産旅客機「YS11」の開発・・「宙づり」強度確認
名古屋航空機製作所の機体研究課が私の歓迎会を開いてくれたのは1959年(昭和34)の9月26日。伊勢湾台風が上陸した日だった。機体研究課に配属され2年目、国産旅客機「YS11」の仕事に就いた。
YS11は戦後わが国の航空機産業の再出発を期し、官民の協力で開発した64人乗りの「ターボプロップ」機。プロペラで進むと同時に排気ガスも推進力にする。62年には試作機ができ65年には就航した。「西岡君には強度試験をやってもらう」と上司から命じられた。機体研究課が人手に余裕がなかったこともあり、私はまだ20代半ばだったが、機体が頑丈に作られているか調べる試験の責任者になった。
日本では戦前、胴体と主翼それぞれに、重りを載せる強度試験をしていた。ところが米国は進んでいた。胴体と主翼が一つになった機体を持ち上げ、宙に浮いたような状態をつくり出す。そして胴体、主翼に同時に荷重をかけ、どれくらいまで耐えられるかを調べる。飛行中を想定した試験によって、胴体を主翼や尾翼と結合させる重要部分の強度がきちんとつかめるというわけだ。
この最先端の「宙づり試験」に私は挑むことにした。日本では初めての挑戦だった。まず、滑車とおもりを使い、機体が浮くようにする。計50~60本の油圧ジャッキを使い、胴体、両翼にまんべんなく、徐々に荷重をかけていった。飛行中、最大でどのくらいの力がかかるか計算して、その力を100%とし、150%の力に3秒間、耐えられることが出来れば合格だ。
「ミシミシッ」「バリバリッ」。あちこちから音が聞こえ始めた。翼の先端はとうに3mたわんでいる。試験を始めて3時間近くたったとき、「150%」に到達した。「150%、3秒、いきます」と私は声を張り上げた。見事に3秒間、持ちこたえてくれた。151%、152%と荷重を増やす。159%になったとき、主翼の付け根の近くがものすごい音で折れ、機体は崩れた。この日本初の試験で付いた自信は私の大きな財産となった。
3.国際的な信頼性証明
小型ジェット機「MU300」は、性能や構造が米国の基準にかなっていることを示す「型式証明」をとる際、連邦航空局から直接、審査されることが決まっていた。また、航空機の信頼性の証明も同様で厄介だった。
飛行機は一般に5万時間から10万時間飛ぶ。米国の規定では、1万機が10万時間飛行して、致命的な事故は1回以下であることが要求された。「規定を満たしていることを詳細に計算、試験して証明せよ」というのだ。もちろん、我々のチームも二重、三重に安全対策をとっていた。が、専門的にいうと、あらゆる故障について、起こる確率が「10のマイナス9乗」以下になるよう、設計を見直さなければならなくなった。この難しい計算も完遂し、設計変更もしたが、時間を食ったのは否めない。
あれやこれやでMU300の型式証明をとるのに2千飛行時間、計2年を費やした。さすが苦労しただけに、証明書をもらった瞬間、全員で万歳三唱をした。
4.私の危機感
私は日本人の良い特質を持った先輩、仲間、後輩たちに支えられ、任務を全うしてきた。みんな優秀で、勤勉かつ協調性がある。こうした人たちが我が国の製造業を担ってきた。が、
(1) それら日本人の長所を阻む風潮がある。まず、世論受けを狙った意見がもてはやされる傾向だ。原子力を含むエネルギーや安全保障などでは、どんな政策が必要か長期的観点から議論されなくてはならない。だが、万人が認めやすいものや第三者が短時間で考えた意見が重視される。有識者が出した結論を着実に実行することが望まれる。
(2) 次に、実務に携わっていない人たちの批評が幅をきかせていること。実務の当事者が一番、改善や改良の仕方を知っている。無意味な批判は彼らのやる気を失わせ、スピードも落としている。
(3) 輸出より内需拡大に力を注ぐべきとする考え方は心配だ。日本は欧米以上に物が充足している現実を見ていないのではないか。日本は資源を輸入せざるを得ない。資源を手に入れるには輸出で稼がなければならない。医療や介護などの国内産業を育てる必要があるのはもちろんだが、日本を成長させるのは輸出であることを忘れてはならない。
日本人の勤勉さにもっと目を向けるべきだ。この国を何によって発展させるのか、進路を若い人たちにはっきり示すことが重要だ。