掲載時肩書 | 元最高裁長官 |
---|---|
掲載期間 | 1989/01/01〜1989/01/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1907/08/26 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 吉岡法律事務所 |
配偶者 | 巖谷小 波3女 |
主な仕事 | 企業弁護士、聖書読書会(無教会)、会社更生法立案、銀行顧問弁護士、最高裁、ロ事件(コーチャン免責) |
恩師・恩人 | 今西誠一 先生、樋口勇吉(篤志家) |
人脈 | 山室軍平、末弘厳太郎、小さん師匠(給仕)、塚本虎二(仲人)、石田和外(長官公邸には抜け道) |
備考 | クリスチャン(無教会)、67年間日記 |
1907年(明治40年)8月26日 – 2007年(平成19年)4月24日)は京都生まれ。弁護士(第一東京弁護士会所属)。第7代最高裁判所長官。企業法務の弁護士として活躍した後に最高裁判事となり、その後最高裁長官となる。現在に至るも、唯一の「弁護士出身の最高裁長官」であり、68歳9ヶ月での最高裁長官就任は歴代最高齢である。熱心な「無教会主義キリスト教」の信徒であり、毎日曜に聖書研究会を続けていた。夫人は明治の文豪、巖谷小波の末娘。
1.戦時下の弁護士
太平洋戦争が始まったのは昭和16年(1941)だが、その前から経済統制が厳しくなり、民事弁護士の仕事はどんどん減ってきた。空襲が激しくなるほど、“灰かき仕事”というのが出てきた。20年(1945)3月10日の東京大空襲で家や会社が焼け、一家が全滅して金庫だけが焼け残るというケースがあった。親戚の人が金庫を開けてみると、中に残っているのは期限の切れた火災保険証書や古い預金通帳ぐらいしかない。本物は家の者が持って出て焼けてしまっている。しかし古い資料からたどっていけば、保険や預金があることが分かる。金融機関は正直だから、正当な権利の継承者ならきちんと支払ってくれる。それで、株式会社なら株主総会を開いて後継者を選び、その印鑑証明書を持って交渉に入った。つまり、火事の翌日、有価物を探す灰かきと同じなので、私はそう呼んでいた。焼け跡で弁当を食いながらこんな仕事を手掛けた。
2.研修所教官
昭和32年(1957)に司法研修所の教官を引き受けた。司法試験に合格した法曹の卵に、裁判官、検察官、弁護士として活躍していくうえで必要な知識や素養を身につけさせる役割だが、私の担当は民事弁護だった。私は更生事件などを手掛けて忙しかったが、やってみて良かったと思っている。
研修所では列車試乗と称して旅行をする。今はないようだが、その途中で機関車に交代で乗る。教官も修習生も菜っ葉服を着て機関士の横に座り、ここからあの電柱までどのくらいの時間で止まるか、ブレーキを操作してくれる。国鉄としては、裁判官や弁護士の卵に基礎的な鉄道の知識を得てもらおうと、便宜を図ってくれた。その晩は熱海で一泊、宴会になる。家内の友人が熱海で旅館をやっていたので、二次会に私のクラス連中10人ぐらいを引き連れてその旅館に行き、芸者を二人だけ頼み、大いに歌い楽しんだ。
3.ロッキード事件の「免責」宣明書にサイン
昭和51年(1976)2月5日、ロッキード事件が新聞に掲載された。最高裁長官に就任間もない私は、前例のない刑事免責の宣明書に署名することになる。
ロ社の副会長コーチャン氏らは、丸紅幹部と田中角栄元首相への働きかけを話し合っており、いわば贈賄の共犯者ともいえる。事件の真相解明には、彼らの供述が必要だと、東京地検が東京地裁に証人喚問を請求した。コーチャン氏ら3人は、海の向こうの米国にいる。そこで請求を受けた東京地裁では、外務省を通じ米国の連邦地裁に証人喚問を依頼する、という大掛かりな話になった。
日本側では、東京地検の検事正と検事総長が3人を起訴しないという宣明書を出したが、米国側は、それでは十分ではないという。最終的に、東京地裁と米連邦地裁との交渉の結果、検事総長らの宣明書の内容を最高裁長官である私が保証する宣明書を出すことで落ち着いた。
最高裁長官が、外国人だとは言え犯罪の容疑者を見逃すのだから、裁判官会議ではさぞ議論があったろう、と想像するかも知れないが、それほど意見は出なかったように思う。というのは、これは最高裁として法律判断を示すのではなく、こんな証拠を取寄せたいという下級審の決定を実現するための司法行政事務だからだ。
藤林 益三 ふじばやし えきぞう | |
---|---|
生年月日 | 1907年8月26日 |
出生地 | 日本、京都府船井郡五ヶ荘村田原 |
没年月日 | 2007年4月24日(99歳没) |
死没地 | 日本、東京都稲城市 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
宗教 | キリスト教無教会主義 |
第7代 最高裁判所長官 | |
任期 | 1976年5月25日 - 1977年8月25日 |
任命者 | 昭和天皇 (三木内閣が指名) |
前任者 | 村上朝一 |
後任者 | 岡原昌男 |
任期 | 1970年7月31日 - 1976年5月25日 |
任命者 | 第3次佐藤内閣 |
藤林 益三(ふじばやし えきぞう、1907年(明治40年)8月26日 - 2007年(平成19年)4月24日)は日本の弁護士(第一東京弁護士会所属)。第7代最高裁判所長官。夫人は明治の文豪、巖谷小波の末娘。