掲載時肩書 | 外相 |
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掲載期間 | 1957/08/27〜1957/09/10 |
出身地 | 東京都王子 |
生年月日 | 1897/05/22 |
掲載回数 | 15 回 |
執筆時年齢 | 61 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶應 |
入社 | 東京フロリスト (自) |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 池田化学、日本金銭登録、武蔵野中央鉄道、大日本精糖、日東化学、日商会頭、海軍軍事顧問、経済同友会、外相、経企庁長官 |
恩師・恩人 | 藤山雷太(経営学) |
人脈 | 御手洗辰雄、加藤武男、有馬頼寧、小倉敬士、船田中、池田成彬、岡崎勝男、工藤昭四郎、永野重雄、岸信介 |
備考 | 父:藤山雷太(渋沢栄一社長の王子製紙専務) |
1897年5月22日 – 1985年2月22日)は東京生まれ。政治家、実業家。戦後の連合国軍の占領下で公職追放となるが1950年に復帰。1951年に日商会頭を再任され、その後日本航空の初代会長にも就任。その一方で経済同友会代表幹事などを歴任した。1956年には、東南アジア諸国との関係改善を目指すアジア善隣国民運動の中央本部会長に就任し、全国的な募金活動を支援した。1957年、戦前から藤山が資金援助していた岸信介は将来的な中華人民共和国との関係を重視していたことから「アジア外交のなかでも中共の問題をやってもらう」と請われ、民間人ながら岸内閣の外務大臣に就任し、財界二世である藤山の政界入りは当時「絹のハンカチ」と称された。外務大臣、経済企画庁長官、衆議院議員(8期)、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、自民党総務会長などを歴任した。藤山コンツェルン二代目。
1.経営失敗の学び
昭和3年(1928)11月に日本金銭登録機を設立し、私が社長で技師長に間宮精一氏になってもらい、技術面を任せた。しかし製品の売れ行きが悪く改善を求めると、自分が発明した製品のことだから「素人に何が分かる」という考えでガンとして受けない。とうとう米国の会社と合併して、日本ナショナル金銭登録機として再出発した。発明家と組んだ事業経験で、私は発明家と一緒に事業をしてはならないことを学んだ。
万一、発明家と一緒に事業をしなければならない場合は、事業経営の面に一切口出しさせてはならないと悟った。発明家を専務とか常務にしたのでは伸びるべき事業も伸びない。発明を事業で生かす道は特許権を買うか、またはその使用料を払って発明家に報いればいいのである。
2.父・藤山雷太と大喧嘩そして反省
父は大日本製糖の再建を恩人渋沢栄一翁から頼まれ、引き受けると決意したときは私財一切を会社のために投げ出し、それで失敗した場合には無一物となって路頭に迷う覚悟をした。その決心を私が13歳のときに聞かせてくれたのだった。それだけにこの会社を再建した後は、父は同社について少なからざる自負心を持っていた。ときには「大日本製糖はおれのものだ」「いったんつぶれた会社を建直したのはこのおれだ」「一番の大株主もおれだ」という考えからかなり傍若無人の振る舞いをすることがあった。
私が「もう、そういう時代じゃない」といっても子供のいうことなど、てんで取り上げてくれない。私が常務の時に、とうとう社長の父と事業方針のことで大喧嘩をやってしまった。私はその晩、葭町で大いに飲み、その足で鎌倉の海浜ホテルへ突っ走った。そのときは、本当に家出するつもりであったが、妻には手紙で「当分家に帰らないが、ここにいるから心配するな」と伝え、約1か月半ぐらいこのホテルに居座った。
その間、一度どうしても帰って来いというので白金の家に帰ったが、父の顔を見るとまたまた大議論となり、ふたたび鎌倉に逃避した。つぎつぎと父の秘書が心配して入れ替わり立ち替わり来てくれたが、ここまでこじれると私もひどく頑固になった。遂に大日本製糖の監査役をしていた小倉敬止さんが、間に立ってくれ、父が滞在していた熱海の万平ホテルへ一緒に出向いた。父はもう何にも言わなかった。私もこれ以上は荒立てるつもりもなかったので、おとなしく折れてでた。父はそれから2年ほどして亡くなった。今にして思えば、あすこまで頑張らなくてもよかったと後悔している。
3.旗艦司令長官の食堂で会食
昭和17年から海軍省顧問を頼まれたので、マレー半島西岸のペナンに行った。ちょうど第二南方派遣艦隊の旗艦が停泊中で、この司令長官が今夜食事に招待するという。旗艦に出向くと艦長以下の乗組員が金モールの正装でずらりと舷側に整列し、軍楽隊の演奏のもとに迎えられた。後部デッキのテントで、司令長官と会い、ヤシの葉が繁る南洋の丘に夕陽の沈む光景をみながら、のんびりしたひと時をすごした。
こののち艦内の司令長官室食堂でご馳走になったが、われわれの食事中、軍楽隊の演奏はずっと続けられていた。このころは戦局が有利に展開していたので、海軍の正式招待は実に立派なものであった。
藤山 愛一郎 ふじやま あいいちろう | |
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1961年頃に撮影 | |
生年月日 | 1897年5月22日 |
出生地 | 東京 |
没年月日 | 1985年2月22日(87歳没) |
出身校 | 慶應義塾大学部政治科中退 |
前職 | 日本商工会議所会頭 東京商工会議所会頭 経済同友会代表幹事 大日本製糖代表取締役社長 日東化学工業代表取締役社長 日本金銭登録機代表取締役社長 日本航空取締役会長 国際貿易促進協会会長 |
所属政党 | 自由民主党(藤山派) |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 |
配偶者 | 妻・藤山久子 |
親族 | 父・藤山雷太 兄・伊吹震 弟・藤山勝彦 長男・藤山覚一郎 いとこ・藤原あき |
第11・16代 経済企画庁長官 | |
内閣 | 第2次池田第1次改造内閣 第1次佐藤第1次改造内閣 第1次佐藤第2次改造内閣 |
在任期間 | 1961年7月18日 - 1962年7月6日 1965年6月3日 - 1966年11月4日 |
第81-82代 外務大臣 | |
内閣 | 第1次岸改造内閣 第2次岸内閣 第2次岸改造内閣 |
在任期間 | 1957年7月10日 - 1960年7月19日 |
選挙区 | 神奈川県第1区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1958年5月23日 - 1976年12月9日 |
その他の職歴 | |
第9代 自由民主党総務会長 (総裁:池田勇人) (1963年 - 1964年) |
藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年〉5月22日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の政治家、実業家。
外務大臣、経済企画庁長官、衆議院議員(6期)、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、初代日本航空会長、自民党総務会長などを歴任した。