葉上照澄 はがみ しょうちょう

宗教

掲載時肩書比叡山長臈
掲載期間1987/10/01〜1987/10/31
出身地岡山県
生年月日1903/08/15
掲載回数31 回
執筆時年齢84 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他六高
入社大正大学 講師
配偶者大恋愛 (小説モデルに)
主な仕事9歳で得度、大正(真言、天台、浄土)教授、写経(33人・僧俗)、42歳僧侶、千日回峰(44~51歳)、比叡山高校長、宗教サミット
恩師・恩人叡南(えなみ)祖賢師
人脈和田博雄、永野重雄(2上)、桜田武(同級)、野村克也、吉村医師、宮沢賢治、橋本凝胤師、茅誠司、山田惠諦師
備考「一隅を照らす」運動
論評

1903年8月15日 – 1989年3月7日)は岡山生まれ。天台宗の僧侶(大阿闍梨)。延暦寺長﨟で初代印度山日本寺竺主および世界連邦日本宗教委員会会長を務めた。世界平和のためには宗派を超えた宗教者の連帯が必要との持論から、世界宗教サミットを開催した。南海ホークス時代の野村克也の後援会長も務めていた。1977年(昭和52年)5月、イスラム教最高審議会の招聘により超宗派使節団長としてエジプトを訪問し、サダト大統領と会談した。2年後の1979年(昭和54年)にエジプト・イスラエル平和条約が締結された際、シナイ半島返還式典においてイスラム教、ユダヤ教、キリスト教の三教の合同礼拝がおこなわれた。1978年(昭和53年)7月、ローマ郊外のネミ湖畔で日本バチカン宗教代表者会議が開催され、日本側代表として徳川宗敬神社本庁統理、長沼基之立正佼成会理事長らとともに出席する。会議終了後、ローマ教皇・パウロ6世と接見し、ともに平和のために働くことを誓いあう。その10日後にパウロ6世が急逝するが、パウロ6世の言葉を遺言と受けとめ宗教サミット開催実現に傾注した。

1.千日回峰行
私の発心の契機は2つある。女房の31歳の死と敗戦である。昭和22年(1947)、私は千日回峰行に入った。かぞえで45歳、体重14貫(52.2kg)、身長5尺3寸5分(1m62cm)。私自身、夢にも千日をやるなどとは考えていなかった。百日、百日、できるだけやって行こうというつもりだった。
 千日回峰行は千日を一期として叡山の峰や谷を巡拝する比叡山独特の修行法だ。最初の七百日までは毎日の行程が七里半(30km)で、山中にある堂社、旧跡、遺跡から一木一草まで定められた300か所で、それぞれ読経と修法を行う。次の百日は、それまでの行程に雲母坂往復が加わった赤山苦行で、毎日15里(60km)。さらに次の900日までの100日は京都一周の大廻りが加わって、21里(84km)になる。そして最後の100日はまた七里半に戻り、大行満となるのである。成就は私で39人目、戦後初であった。

2.初回峰(700日間)
回峰行には独自の服装がある。まず浄衣(じょうえ)。白麻の狩衣のようなもので、これに野袴、脚絆をつける。白の死に装束だが、同時にもっとも清浄であり、汚れが目立つので、常に洗濯をしなければならない。 
 草履も行以外には使ってはならない特別なもの。ひもが左右に4本ずつあり、八葉の蓮台をかたどっている。行に出る際は死者同様、畳の上で草履を履いて、そのまま出ていくのである。いわば毎日死に行く。そして生かされて帰ってくる。その繰り返しである。行の期間中は毎日午前二時起き。私の場合は前日の夕方に五合の飯を炊き、その四分の一を味噌雑炊にして半分だけ食べた。目覚めた後、腹持ちのために堅いご飯を四分の一食べて、行に出る。10時半ごろ、行を終えて帰ってくると、昨夜の残りの雑炊を配給のザラメを放り込んで食べる。従って一日二合半、残りは翌日の分だ。

3.断食・断水・不眠不臥(100日間)
回峰行を始めて5年目の昭和26年(1951)、700日を回り終えて、私は無動寺の明王堂で断食断水、不眠不臥の行に入った。700日の回峰が終わった日から断食に入るが、”生き葬式“といって縁のある方々にご馳走して、お別れをした後、一人お堂の中に入る。パタンと扉を閉められると、さすがに悲壮な感じがするものだ。水さえ飲めば29日は生きられるといい、逆に水を飲まなければ3日で死ぬというのが、医学界の定説だという。確かに3日目になると、死人の匂いがしてくる。細胞が分解していくのだろう。口も臭くなる。しかし、それでも死なない。5,6日ごろが一番冴えて、頭がすっきりしている。だが、さすがに9日目にはボーッとしてきた。この結果、自信をもって言えるのは9日がギリギリ、10日やったら死ぬということである。おそらく昔、10日やって死んだ人がおり、そこで9日の線が出てきたのだと思う。

4.京都大廻り
回峰700日目末の断食断水が終わると、6年目は1日の距離が15里(60km)と倍に延びる赤山苦行。これからお供がつくことになる。その翌昭和28年(1953)、いよいよ京都大廻りがやってきた。一日21里(84㎞)を100日間。毎日午前零時に起きないと間に合わない。辛いことはいうまでもなく、ある行者は電柱に抱き付き、グーッと寝てしまった。人に見られては恥ずかしいと、お供の人が取り囲んで隠したが、いつまでも寝かせられないので、無理やり起こしたとか。京都大廻りコースというのは、まず比叡山をぐるっと回って雲母坂を修学院離宮まで下り赤山明神を拝み、東山に沿って銀閣寺前から平安神宮にでる。わらじ履きで奥へ通り、桓武天皇と孝明天皇を拝む。そこから清蓮院、知恩院を経て八坂神社。そこで中村楼というお茶屋があり、お昼をいただく。その後、清水を奥の院まで全部拝んで、六波羅から堀川を北へ。神泉苑、二条城の西を通って菅原神社の北野神社。続いて大宮通りから上立売、室町から上御霊へあがって出雲露橋へ出る。橋を渡れば下鴨神社。近くの河合神社を拝んで21里である。
 午後10時ごろ宿舎で仮眠し、翌日午前零時に起きて、今度はその逆回りをする。京都の西南を除いた四分の三を回るのだが、それが延暦寺の勢力範囲で、残りは東寺の範囲なのだ。
うれしいのは子供たちが待っていてくれることだ。コースの途中に毎日二千人くらいが待っていて、阿闍梨さんがきたと、サッと座って手を合わせる。相手は子供だから、かがまなければ数珠を頭に乗せてやれない。こちらはフラフラなのだがこらえて数珠を乗せてやると「あ、良かったっ」と飛び上がる。目を輝かせて待ち、無心に拝む姿を見ると、こちらが逆に拝みたくなる。数珠を乗せて歩くうちに、疲れまで吹っ飛ぶ気がするのだ。
 京都大廻りの後、元に戻って一日七里半、100日間の回峰をすませ、7年間一千日、延べ歩行距離4万キロの回峰行も大行萬となった。昭和28年(1933)9月18日、もう51歳になっていた。

5.文学と宗教
文学者には宗教はわからない。反対に宗教者には文学がわからないといわれるが、それは実践がないからだと思う。文豪夏目漱石は英文学者、作家で、宗教を求めているのは明らかだが、サイエンスがない。森鴎外は医者で詩人だが、宗教がないと、私は思う。その点、宮沢賢治にはサイエンスとポエムと宗教の3つがチャンとある。私が彼に傾倒したのは、そのためである。
 彼の「雨ニモマケズ」の精神は、回峰行の根底にある常不軽菩薩の気持ちそのものだ。「ミンナニデクノボウトヨバレ」ながら、一生懸命人のために働き通す。「サウイフモノニワタシハナリタイ」とは常不軽菩薩に他ならない。

6.野村克也氏
“生涯一捕手”の野村君が現役時代よく私の所に来ていた。ホームランが打てなくなるとやってくるのだが、別に説教をするわけではない。ただ私の所に来ると何となく心が休まり、安心してバッターボックスに入れるというのだ。その野村君が三冠王になった前の年、南海が新人を高額で獲得するため、現役の給料を下げることにした。夜中の12時過ぎに野村君から電話がり「馬鹿にしている。野球をやめる」と言う。そこで私は「怒れ、怒れ。しかし人や組織に怒っても屁にもならん。球に向かって怒れ」と言ってやった。
 翌年、彼は一球一球を、こんちくしょう、コンチクショウと打って三冠王になった。圧迫されてもへこたられない精神、花園大学でスポーツを奨励したのも、そんな人間に育って欲しかったからだ。

はがみ しょうちょう
葉上 照澄
生誕1903年明治36年)8月15日
日本の旗 日本 岡山県
死没 (1989-03-07) 1989年3月7日(85歳没)
出身校東京帝国大学
職業大学教授、新聞社論説委員、僧侶、平和運動家

葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年8月15日 - 1989年3月7日)は、天台宗僧侶(大阿闍梨)。延暦寺長﨟で初代印度山日本寺竺主および世界連邦日本宗教委員会会長を務めた。世界平和のためには宗派を超えた宗教者の連帯が必要との持論から、世界宗教サミットを開催した。

南海ホークス時代の野村克也の後援会長も務めていた。

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