掲載時肩書 | 東大学長 |
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掲載期間 | 1959/01/17〜1959/02/02 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1898/12/21 |
掲載回数 | 17 回 |
執筆時年齢 | 61 歳 |
最終学歴 | 東北大学 |
学歴その他 | 東京高等工業 |
入社 | 北大研究補助 |
配偶者 | 学者娘 |
主な仕事 | 独、伊、米に留学、北大教授(13年間)、東大(45歳)、強磁性規則開発、原子力平和利用、学術会議議長 |
恩師・恩人 | 本多光太郎仲人、ケリー博士 |
人脈 | 清水武雄教授、中谷宇吉郎(北大)、尾高朝雄、湯川博士、石川一郎、南原繫・大内兵衛先輩、伏見康治 |
備考 | クリスチャン、父・村長 |
1898年(明治31年)12月21日 – 1988年(昭和63年)11月9日)は神奈川県生まれ。物理学者。第17代東京大学総長(1957年 – 1963年)。専門は、強磁性結晶体の研究。日本学術会議会長として日本の南極観測参加に尽力する。 また、日本の原子力研究の創始に当たっては、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を伏見康治とともに提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。東京大学総長退任時の卒業式告辞で述べた小さな親切運動は社会現象となり、社団法人の設立につながった。茅は同法人の初代代表として23年間在職した。伊登子夫人は天文学者・木村栄の長女。長男は工学者の茅陽一、次男は化学者の茅幸二(理化学研究所所長)。
1.恩師:本多光太郎先生のお人柄
先生は東北大学で物理学通論と磁性体論の講義をされた。先生は訥弁といわれた方だが、一度壇上から講義されるとなると実に明快でわかりが良かった。時には和服のままで講義されたが、羽織の紐が右と左で3,4寸くらい高さが違っているのが普通だった。犬がお好きで小さなあまり上等でないのがよく講義室まで付いてきたが、ドアの所で「シッ-、シッ-」と犬を追われる先生の光景を階段教室に並んだ学生一同が笑いをこらえて見守ったものである。
先生が非常に快晴な日でも左にカバン、右に洋ガサを離されなかったことは有名である。その理由をお訊ねしたところ「3つの得があるわなぁ!第一は雨が降るか降らぬか心配せんでいいわなぁ!第二は左にカバンを持つので、右にこれを持たないとバランスがとれんわなぁ!第三はステッキの代わりになってよいわなぁ!」と言うのである。大正14年(1925)12月に結婚式を挙げたが、先生ご夫妻が媒酌の労を取ってくださった。
2.北海道大学時代の教授と学生の交わり
昭和5年(1930)秋、私は家族と共に札幌に移り住んで北大理学部物理学教室に勤務した。若い教授連は研究にも心身を打ち込んだが、同時に学生の教育にも熱意をもって当たった。ことに教授と学生との接触は、いま東京大学に勤めていて考えると、まるで雲泥の相違である。学生は夜など私の家に数名連れ立って遊びにくる。ちょうど米国から買ってきた、当時は日本にほとんどなかった蓄音機でレコードを聴いてベートベン、ショパンを語る。冬はスケートに、またはスキーをともども楽しみ、夏は石狩川の湖でスカールを漕いだ。冬季の日曜日には学生たちとまったくの友達となって苦楽を共にした。このスキーとスカールをやったことが私の健康をすっかり造り上げてくれたらしく、還暦を越えた今日まで医者に厄介になったことはない。こんなわけで今日でも北大物理出の卒業生の氏名はおろか就職先もよく知っているのである。
3.終戦時の原爆と私
8月6日午前8時15分広島にただ一発の爆弾が落ちただけで全市がほとんど壊滅してしまったとの報告は陸海軍技術運用委員会を驚愕させた。そのとき原子爆弾であると信じた学者は居なかったが、やがて現地に飛んだ仁科博士の報告その他でこれが真実とわかった。越えて9日午前11時3分長崎にも爆弾が落ちたが、その経験によると原爆からの熱波を防ぐには白い毛布が最適であるとのことだった。確か8月11日の夜かと思うが相模湾を北上するただ一機のB29があり「これは危険です、危険です」と、ラジオの放送を聞いて、私は白い毛布を一枚持って防空壕の奥に身をひそめ、息を殺していたことがあった。
8月15日午前、私は神田の学士会館で機雷の回数起爆装置の委員会に加わっていたが、正午に放送された天皇陛下のお言葉を聞いて慌てて家に帰って寝てしまった。この15日以後の半年はただ夢中で終戦の処理に当たった。