茂木友三郎 もぎ ゆうざぶろう

食品

掲載時肩書キッコーマン名誉会長
掲載期間2012/07/01〜2012/07/31
出身地千葉県
生年月日1935/02/13
掲載回数30 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他上野高、コロンビア大大学院
入社キッコーマン
配偶者病院長娘
主な仕事米国工場設立、テリヤキソース,世界展開、ワイン、調味料、社外取締役制度
恩師・恩人茂木佐平治
人脈木村尚三郎、加賀見俊夫、弁護士(マルコム、ミック)、藤田元司、松井秀喜、貴乃花、宮内義彦(S10会),牛尾治朗、小林陽太郎
備考亀甲萬(キッコウマン:茂木6、高梨、堀切の8家)
論評

1935年(昭和10年)2月13日 – )は千葉県生まれ。経営者。キッコーマン株式会社取締役名誉会長・取締役会議長。父はキッコーマン中興の祖・茂木啓三郎元社長。茂木賢三郎独立行政法人日本芸術文化振興会理事長は弟。コロンビア大学コロンビア・ビジネス・スクールで経営学修士の学位を修得し、コロンビア大学名誉理事も務めた。日本経済団体連合会常任理事、経済同友会終身幹事、文部科学省中央教育審議会副会長、産業教育振興中央会会長、日本国際フォーラム顧問、日本経営協会会長等を歴任。

1.キッコーマン創業8家の不文律
慶応大3年生のとき、交換教授として、ノースカロライナ大学からホワイトヒル教授の講義を聞き、感動を覚えた。4年生になったとき、米国の経営大学院(ビジネススクール)では、①ケースメソッド(事例研究)主体、②レクチャー(講義)主体、③両者の併用の授業であることが分かり、企業経営を理解するため、両親に米国留学の許可を求めた。母の後押しで父も「わかった」と認めてくれた。
 講義主体なら日本の大学院と代わり映えしない。事例研究と講義の併用がよさそうなコロンビア大学に決めた。大学は米国経済の中心地、ニューヨーク市内にある。「コロンビア大学の経営学院に行って経営学修士(MBA)の学位を取る」と心に決めた。
 就職のことも考える必要があった。亀甲萬(キッコウマン)は茂木6、高梨、堀切の8家で構成され、「各家から一世代一人に限って入社を認める。ただし役員にする保証はない」という不文律があった。父・啓三郎は社長経験者だが、私はこの会社に入社できる有資格者であった。高校生ぐらいから、何となく父の歩んだ道をたどることになるだろうと思っていた。そこで茂木房五郎社長の面接を受けて1958年入社し、同時に休職を願い出た。これで留学のための時間はできた。

2.経営学修士(MBA)取得
1959年2月から5月末までコロンビア大学の英語講座を受けた。単なる英会話教室ではなく大学の正式科目だったから、毎週のように試験があった。その年の9月、いよいよ大学院の新学期を迎えた。コロンビア大学のビジネススクールには過去、何人かの日本人が在籍していた。だがMBAの取得者はいなかった。
 当時のこの大学院では経営学、意思決定論、会計学、統計学などが必修科目だった。私は他に国際経済論、人間関係論、経営経済学、工場立地論、消費者行動論などを選択した。全20科目。その多くにケーススタディが組み込まれていた。
 勉強の合間に課外活動も少しはした。「トーストマスターズ・クラブ」というテーブルスピーチの会がそれだ。各人にその日のテーマを書いたメモが配られる。スピーチは一人1分で、前の人が話し始めたらホチキスを外してテーマを読むことができる。つまり考える時間は1分。私には当時の韓国政府が一方的に漁業管轄権を宣言した「李承晩ライン」についてとか、「ソフィア・ローレンとブリジット・バルドーはどちらが魅力的か」とかのテーマが回ってきた。1961年6月、2年間の課程を経てMBA学位を取得した。

3.米国に生産拠点を
私が米国での現地生産を提案した1965年の時点で、米国に生産拠点をもつ日本企業は皆無だった。為替は1ドル=360円で、もし外国に工場を建設すると巨額の投資が必要だったし、それだけ大きなリスクを覚悟しなければならなかった。1度、2度と提案するも時期尚早と経営会議で見送られたが、3度目にやっとゴーサインがでた。次の課題は建設地の選択だった。米国を東海岸、中部、西海岸に分けて考える。東海岸は主要マーケットから遠い。西海岸は日本人や日系人が多く住んでいるので適地のように見えるが、それは逆に「親離れしない」ように思えた。そして最終的にウィスコンシン州・ミシガン湖の西に位置するウォルワースに決まった。次の最大課題は地元住民の建設同意をもらうことだったが、地元の町議会では強い反対意見も出た。最終判断は郡議会の公聴会に持ち越されパスしたが、町議会が拒否権を行使しなかったことがうれしく私の頭にのこった。
 1972年秋、建設工事が本格化した。後で分かったことだが、我が社はソニー、吉田工業(現YKK)とともに対米進出の第一陣だった。しかも食品企業としては初の工場だ。地元は工場建設を認めてくれた。そんな町の人々全員に「キッコーマンの工場が出来てよかった」と思ってもらうためにどうすればいいだろう。
 共存、企業市民、現地化。どんな言葉でもいいが、要は地域に溶け込み、地域とともにある工場にすることだ。そのために「キッコーマン・フーズ」という現地法人を設立しコロンビア大学時代の友人・マルコムやトム、ミックにも役員になってもらった。キッコーマンの米国工場ではない。米国企業キッコーマンの工場になり切るのだ。
 具体的に現地化の方策を考えた。まず地元企業との取引を優先する。工場には星条旗を掲げる。外国に住む日本人はどうしても固まりがちだが、キッコーマン社員は可能な限り分散して暮らすことで、一人ひとりが地域社会に溶け込むようにした。

もぎ ゆうざぶろう
茂木 友三郎
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文化功労者顕彰に際して
公表された肖像写真
生誕 (1935-02-13) 1935年2月13日(87歳)
日本の旗 日本 千葉県
出身校慶應義塾大学法学部
コロンビア大学コロンビア・ビジネス・スクール(MBA)
職業実業家・経営学者
親戚茂木啓三郎(父)
茂木賢三郎(弟)
受賞藍綬褒章(1999年)
オランダ王国オレンジ・ナッソー勲章(2003年)
ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字賞(2006年)
文化功労者(2018年)

茂木 友三郎(もぎ ゆうざぶろう、1935年昭和10年)2月13日 - )は、日本経営者キッコーマン株式会社取締役名誉会長・取締役会議長。父はキッコーマン中興の祖・茂木啓三郎元社長。茂木賢三郎独立行政法人日本芸術文化振興会理事長は弟。

コロンビア大学コロンビア・ビジネス・スクール経営学修士学位を修得し、コロンビア大学名誉理事も務めた。日本経済団体連合会常任理事、経済同友会終身幹事、文部科学省中央教育審議会副会長、産業教育振興中央会会長、慶應義塾評議員・理事、日本国際フォーラム顧問、日本経営協会会長等を歴任。

2014年6月に公益財団法人日本生産性本部会長に79歳という異例の老齢で就任した。同財団に事務局を置く新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)共同代表、日本アカデメイア共同塾頭、一般社団法人全日本・食学会名誉理事[1]でもある。

  1. ^ 全日本・食学会 組織概要
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