掲載時肩書 | 衆議院議長 |
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掲載期間 | 1965/11/09〜1965/12/05 |
出身地 | 栃木県 |
生年月日 | 1895/04/24 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 内務省 |
配偶者 | 元田肇大臣娘 |
主な仕事 | 大阪、作新学院、弁護士、東京市助役、衆議院議員、犬養暗殺、商工会議所、鳩山派、防衛大臣、衆議院議長 |
恩師・恩人 | 山田三良教授 |
人脈 | 植村甲午郎(一高)、藤山愛一郎、岸信介、三木武吉、菊池寛、大野伴睦、河野一郎 |
備考 | 父:作新学院創設 |
1895年〈明治28年〉4月24日 – 1979年〈昭和54年〉4月12日)は栃木県生まれ。政治家。1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙で自由党から立候補し当選、政界復帰を果たす。1955年(昭和30年)、保守合同に伴い自由民主党に参加。同年、第3次鳩山内閣の防衛庁長官に就任。また、自民党外交調査会長、安全保障調査会長を歴任し、親台湾・大韓民国派、タカ派としての立場を取った。党内では大野伴睦派に所属するが、大野の死後に派閥は分裂し、船田派を率いた。衆議院議員(当選15回)。第51代・第56代衆議院議長、自由民主党副総裁、政治家一家として知られた「船田三兄弟」の長兄。衆議院議員で行政管理庁長官をつとめた船田享二は長弟、衆議院議員で運輸大臣や自治大臣などを歴任した藤枝泉介は次弟にあたる。澄夫人は第24代衆議院議長元田肇の五女。参議院議員や栃木県知事をつとめた船田譲は長男で、その長男(孫)の船田元も衆議院議員、その2度目の妻(孫嫁)の畑恵も参議院議員をつめとている。
1.犬養毅(木堂)先生
昭和6年(1931)、76歳の犬養毅内閣が発足した。私は令息の犬養健氏とともに首相秘書官を命ぜられて、木堂先生の側近にお仕えすること約半年に及んだ。木堂先生はあの通りの小柄で老齢に達しておられたから、しばしば重要な議会中でも居眠りをされることがあった。しかし、頭脳はきわめて明晰であり、かつ一時(いっとき)もボンヤリすることのできない方であった。よく暇なときには、ひとりで基盤に向かっておられることもあった。書は日本随一といわれるほどの達筆であるから、閣僚や党の幹部からの注文も多かったが、木堂先生はそれをうるさがっていたので、揮毫をしてもらうのが秘書官の一難事でもあった。
2.東京商工会議所理事・・・県単位の商工経済会をつくる
昭和16年(1941)8月末、夏の暑い日に東京丸の内にある赤煉瓦の古い商工会議所の2階で、初めて藤山愛一郎(現国務大臣)会頭と内密に面会した。私は法制局長官を辞めてから一時大政翼賛会に関係し、政治的には護国同志会として行動していた。暇でもあったので、こんな時に経済界を覗いてみるのも面白かろうと考え、商工会議所理事を引き受けることにした。
戦前の商工会議所は営業税付加税を財源として公共組合組織になっていた。理事としては相当の月給をもらい事務局を担当して日常の業務は一切任されていた。藤山会頭の下に副会頭が2名。うち1名は大企業から選ばれ、他の1名は中小工業者代表というよりは町の商人代表があげられた。数10名の評議員、理事が納税者から選ばれ、東京府・市に対立して公の機関となっていた。昭和16年12月の真珠湾攻撃をもって第二次世界大戦に突入した。商工会議所も戦時経済の協力、民生の確保に主眼を置き、昭和18年4月初めから各都道府県単位の商工経済会ができた。
3.保守合同の裏話(保守合同の立役者、三木武吉と大野伴睦)
昭和30年(1955)春、鳩山内閣の下に総選挙が行われて、与党は180余、自由党は110余、これを合わせれば優に衆議院で三分の二の大勢力となる。吉田内閣末期以来、少数党内閣で政界は不安を続け、内外の情勢は楽観を許さなかった。総選挙直後の3月半ばに、帝国ホテルで長老の三木武吉氏に会った。三木氏はいつになく真剣で、保守合同の必要を強調した。私に納得したらすぐ大野伴睦氏を動かせということになった。当時、自由党は大野総務会長、船田筆頭総務という格好であったから、このことを大野氏に伝えると、彼は言下に「あの大だぬきに騙されるな」と一蹴された。しかし、保守合同は時勢の要求であり、世論の強い支持もあった。それに三木氏は鳩山直系の第一人者であり、私も初当選の頃から長く鳩山門下にいた縁故がある。とうとう有力な橋渡しの極秘の努力が実って5月半ばに大野・三木会談が行われ、両者の和解から保守合同へと進んだのだった。
船田 中 ふなだ なか | |
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生年月日 | 1895年4月24日 |
出生地 | 日本 栃木県宇都宮市 |
没年月日 | 1979年4月12日(83歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学英法科 |
前職 | 内務省官僚 船田教育会理事長 作新学院学院長 |
所属政党 | (立憲政友会→) (翼賛政治会→) (護国同志会→) (日本協同党→) (無所属→) (自由党→) 自由民主党(大野派→船田派) |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 衆議院永年在職議員 |
配偶者 | 船田澄 |
子女 | 長男・船田譲(元参議院議員) |
親族 | 義父・元田肇(元衆議院議員) 次弟・船田享二(元衆議院議員) 三弟・藤枝泉介(元衆議院議員) 孫・船田元(衆議院議員) 孫嫁・船田恵(元参議院議員) |
第51・56代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1963年12月7日 - 1965年12月20日 1970年1月14日 - 1972年11月13日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第5代 防衛庁長官 | |
内閣 | 第3次鳩山内閣 |
在任期間 | 1955年11月22日 - 1956年12月23日 |
選挙区 | (栃木県第1区→) 栃木県第1区 |
当選回数 | 15回 |
在任期間 | 1930年2月20日 - 1945年12月18日 1952年10月1日 - 1979年4月12日 |
その他の職歴 | |
自由民主党副総裁 (総裁:福田赳夫) (1977年11月 - 1978年12月) | |
第6代 自由民主党政務調査会長 (総裁:岸信介) (1959年 - 1960年) |
船田 中(ふなだ なか、1895年〈明治28年〉4月24日 - 1979年〈昭和54年〉4月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選15回)。第51代・56代衆議院議長、自由民主党副総裁、従二位勲一等旭日桐花大綬章。
政治家一家として知られた「船田三兄弟」の長兄。衆議院議員で行政管理庁長官をつとめた船田享二は長弟、衆議院議員で運輸大臣や自治大臣などを歴任した藤枝泉介は次弟にあたる。澄夫人は第24代衆議院議長元田肇の五女。参議院議員や栃木県知事をつとめた船田譲は長男で、その長男(孫)の船田元も衆議院議員、その2度目の妻(孫嫁)の畑恵も参議院議員をつめとている。
なお名の「中」は「なか」が正しい読みで、「あたる」は誤読である。