舟橋聖一 ふなはし せいいち

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1969/06/15〜1969/07/22
出身地東京都
生年月日1904/12/25
掲載回数38 回
執筆時年齢65 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他水戸高
入社明大講師
配偶者従妹 学生結婚
主な仕事祖父母:歌舞伎、浄瑠璃好き、 祖父(古河本社番頭)、、清元、心座、戯曲→小説
恩師小山内薫
人脈田辺茂一(小)、 秋田雨雀、土方定一、今東光・日出海、村山知義、堀辰雄、小林秀雄、川端康成
備考父東大教授
論評

1904年(明治37年)12月25日 – 1976年(昭和51年)1月13日)は東京府生まれ。小説家。
明治大学教授として教鞭をとるかたわら、雑誌『行動』に参加して『ダイヴィング』(『行動』1934年10月)を発表、行動主義を宣言して注目された。多くの戯曲を書いたが、小説『木石』で地位を確立。戦後は、『雪夫人絵図』や『芸者小夏』シリーズなどの愛欲小説や、『花の生涯』をはじめとする歴史物を書いて人気作家となった。丹羽文雄とは自他共に認めるライバル関係であった。幼い頃からの相撲好きでも知られ、横綱審議委員会の委員長に任じられた。「私の履歴書」には38回の連載で高橋誠一郎と同じ最多でした。内容は歌舞伎、相撲、新劇、文学仲間との同人誌交流など各界の近代史を語ってくれていた。

1.相撲と私
私は東京市本所区横網町二丁目で生まれた。近所に友綱部屋という相撲部屋があった。まだ国技館はできていなかったので、両国の回向院の境内に小屋掛けの相撲場があり、関取や取的は場所になるとそこへ通った。子供の私には小屋掛けの相撲の記憶がない。しかし、友綱部屋へは稽古相撲を見に行った。そこには太刀山、国見山、八幡山、伊勢の浜、黒瀬川、紅葉川などの関取が全盛を誇っていた。その中で、寒玉子というユーモラスなシコ名を持った力士と一番親しくなった。大掃除のときなどは、彼を筆頭に取的が2,3人は手伝いに来てくれていたから、畳でもタンスでも、片っ端から運び出してくれうれしかった。

2.芝居と私
私(4,5歳)と芝居との接近は、父のドイツ留学中を利用して祖母によって誘導された。まさに鬼のいない内の洗濯だった。祖母は古河(財閥)虎之助夫人をはじめ、重役の奥方を誘った。ロハの私は、奥さん方の脂粉の香りに囲まれて芝居見物をしたのである。奥さんたちはリュウとした着物を着て高価な帯を締めていた。私が高貴織りのお召しとか、紋綸子、一越縮緬とかいう女の着物に強い執着を示すようになったのは、芝居の怖い場面でこのお召に隠れたので、感覚を知ったからである。

3.首相・原敬と祖父・近藤(古河財団・理事長)の関係
原敬が腰越の別荘を買ったのは不見転で、すべて近藤に一任し、普請も近藤に建てさせた。そのためか、間取りや庭の取り方が、両家とも隣り合わせでよく似ている。現在、近藤別荘は興業銀行の寮となり、原別荘は養子の貢氏が住んでおられる。別荘ができてからは、原さんもこの土地を愛して、週末には夫婦揃って静養に来られた。両家は竹垣一つで隔てるのみであったから、近藤が原さんの家へ招かれることもあり、その逆もあって、子供の私もたびたび食卓に並んだり、原さんの膝に抱かれたりしたものだった。

4.芸者との初体験(水戸高時代)
大工町の芸者豆千代によって、私は初めて女の肉体を知った。私は1週間前、同じ大工町の「中川」という鰻屋で彼女と会い、同意を得ていたのであった。酒の弾みとか、その場の出来心とかというのではなく、1週間の考慮期間を置き、尚且つ女を忘れられなかったので、実行に及んだのであり、後悔などはなかった。それでも女の五体がこれほど熱狂するものとは知らなかった。それまでにも私は春本などで性知識を持っていたつもりだったが、私は彼女が突然の苦痛に喘ぎだしたのかとびっくりし、「おい、大丈夫か」と聞かずにはおれなかった。彼女はまだ18歳ぐらいであったが、売れっ妓だった。

舟橋聖一
(ふなはし せいいち)
Seiichi Funahashi.jpg
ペンネーム 舟津慶之輔
誕生 1904年明治37年)12月25日
日本の旗 日本東京府東京市本所区横網町
(現・東京都墨田区横網
死没 1976年昭和51年)1月13日
(満71歳没)
日本の旗 日本・東京都文京区千駄木
日本医科大学付属病院
墓地 多磨霊園
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 学士文学
最終学歴 東京帝国大学文学部国文科
活動期間 1935年 - 1976年
ジャンル 小説随筆戯曲
代表作 『木石』(1938年)
悉皆屋康吉』(1941-45年)
雪夫人絵図』(1948年)
芸者小夏』(1952年)
花の生涯』(1953年)
ある女の遠景』(1963年)
『好きな女の胸飾り』(1967年)
主な受賞歴 毎日芸術賞(1964年)
野間文芸賞(1967年)
配偶者 佐藤百寿
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舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年明治37年)12月25日 - 1976年昭和51年)1月13日)は、日本小説家東京生れ。旧制水戸高等学校を経て東京帝国大学文学部卒。弟は脚本家舟橋和郎芸術院会員。文化功労者

大学在学中に『朱門』に参加。四代目河原崎長十郎村山知義らと共に劇団「心座」の旗揚げに尽力し、『白い腕』で文壇に登場。明治大学教授として教鞭をとるかたわら、雑誌『行動』に参加して『ダイヴィング』(『行動』1934年10月)を発表、行動主義を宣言して注目された。多くの戯曲を書いたが、小説『木石』で地位を確立。

戦中に書き継いで声価の高い『悉皆屋康吉』を経て、戦後は、『雪夫人絵図』や『芸者小夏』シリーズなどの愛欲小説や、『花の生涯』をはじめとする歴史物を書いて人気作家となった。その後も『ある女の遠景』『好きな女の胸飾り』などで独自の伝統的、官能的な美の世界を展開。丹羽文雄とは自他共に認めるライバル関係であった[1]

他方で、自らが中心となって作家連合の「伽羅(キアラ)の会」(きゃらのかい)を結成し、『風景』を創刊[2]。社会的・文壇的活動も活発で、文部省国語審議委員として戦後国語国字問題に取り組んだり、日本文芸家協会理事長に選出されて著作権問題の解決に尽力したりした。

幼い頃からの相撲好きでも知られ、横綱審議委員会の委員を長く務め、のちに委員長に任じられた。

  1. ^ 没後に回想記『人間・舟橋聖一』(新潮社 1987年)を著した。
  2. ^ 大村彦次郎 & 坪内祐三 2016
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