緒方知三郎 おがた ともさぶろう

医療

掲載時肩書日本医大老人研所長
掲載期間1970/07/09〜1970/08/04
出身地東京都
生年月日1883/01/31
掲載回数27 回
執筆時年齢87 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他三高
入社病理助手
配偶者弁護士娘
主な仕事父:緒方洪庵(次男)天皇侍医、父を解剖 、脚気、唾液腺ホルモン、花街、長唄
恩師青山胤通、長与又郎
人脈上野精一、吉住慈恭、吉田富三(後輩)、沖中、木本誠二、弟(東大薬学教授)
備考趣味(奇術・長唄)
論評

1883年1月31日 – 1973年8月25日)は東京生まれ。病理学者。脚気や結核、腫瘍の発生、「唾液腺内分泌に関する研究」等を研究。ドイツに留学し、ベルリン市ウエストエンド病院病理研究室などでの研究を終えて、1913年帰国、東京帝国大学医科大学医学科講師に嘱託、翌年助教授になる。1923年に東京帝国大学医学部教授となり、1943年に退官し、同大学名誉教授となる。唾液腺ホルモン「パロチン」の開発者でもある。幕末の蘭学者・緒方洪庵の次男である緒方惟準の四男。

1.父(緒方洪庵の次男)を解剖する
明治42年(1909)7月、私の父は亡くなった。すでに有馬温泉に隠居していて、良性のガンに侵され、だんだん痩せて来ていた。病名は誰も口にしなかったが、優れた医学者でもあった父はすでに知っていて、遺言で遺体は解剖して学会で発表してくれるように、とのことであった。兄も私も父親のからだにメスをいれるのは耐えられなかったが、母がそばにいて厳として励ましてくれた。
 遺体を布団の上に置いたまま油紙を敷き、流れ出る血はガーゼで吸い取り、血管はいちいち結紮(けっさつ)して、手術の時と同様に、血を流さずに問題の臓器を調べた。この解剖法は、死体を解剖室へ運べないときのための方法として、後年大いに参考となり、長与又郎先生がガンで亡くなった桂太郎首相の自宅で解剖したときも、私が助手を務め、血を流さないようにやってのけることができた。

2.唾液腺ホルモンの活用
唾液腺には、耳下腺、顎下腺、舌下腺の3種がある。そのうち内分泌に関係するのは主として耳下腺で、この腺房から腺管内に分泌された液は、排出管を経て口の中に外分泌される。この唾液を貝原益軒などは津液(しんえき)と呼んで「大切なものだから吐き出すな」と注意しているほどだが、西洋医学ではでん粉消化酵素を含む弱い消化液であるという指摘にとどまっていた。
 私たちはいろいろ研究した結果、唾液腺ホルモンは軟骨と歯の生理的な発育養分として欠かすことのできないものであることがはっきりした。唾液腺ホルモンの分離に成功したのは昭和18年(1943)、学会に公にしたのは翌19年だった。
 ところで、唾液腺ホルモンは、人間が全生涯を通して生理的な健康生活を営むのに必要なものであるにもかかわらず、皮肉なことに性ホルモンが幅を利かす二十代になると、次第に分泌が衰えてくる。唾液腺ホルモンを分泌する耳下腺が普通の脂肪組織のようになって、いわゆる成人性無唾液腺症が起こり始め、体力も衰えてくる。なぜ唾液腺ホルモンの欠乏が体力の衰えになるかというと、同ホルモンは運動器(骨や筋肉)、循環器(心臓や血管)、呼吸器(肺や気道)の3つが健全に働くために欠かせない化学物質だからである。そこで私の関心は、体力の衰えつまり老化・研究に移ってきたのである。

3.奇術クラブ創設・・・天皇陛下も笑わす
昭和8年(1933)、有志と共に東京アマチュア・マジシャンズ・クラブを設立した。専門家の奇術師は会員にはしないが、招いて演じてもらったり、教えてもらったりする。世話役や会長は互選するという決まりで、今は同様の組織が東京以外にも各地に300ぐらいあるらしい。
私は初代の会長にはならず、東大退職後に三代目の会長となった。奇術がとりもつ縁で、宮中に呼ばれたことも何回かある。松旭斎天一が明治天皇に手品をお見せしたとかの話があるが、それは華族の家の祝宴にお出ましの時、たまたまご覧になったのであって、戦前は位がない芸人は陛下にお目通りできなかった。私には、ただの奇術師と違い、東京帝国大学教授という肩書があったから、それでお呼びくださったのだと思う。戦前・戦後を通じ、個人及びクラブの一員として、計10回ほどご覧に入れた。
私は最後に十八番である「天狗の鼻」という創作を演じた。鼻の上に細かく切った紙を立て、それを落とさないよう、滑稽な仕草でグルグル回した。陛下は相好を崩し無事笑っていただいたので、面目を施した。

1955年

緒方 知三郎(おがた ともざぶろう、1883年1月31日 - 1973年8月25日)は、日本病理学者。東京生まれ。

幕末蘭学者・緒方洪庵の次男である緒方惟準の四男。緒方章は弟。緒方富雄岡村昭彦岡村春彦は甥。

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