米山稔 よねやま みのる

その他製造

掲載時肩書ヨネックス会長
掲載期間2005/04/01〜2005/04/30
出身地新潟県
生年月日1924/10/15
掲載回数
執筆時年齢81 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社陸軍
配偶者幼年友 23歳
主な仕事陸軍工廠、船舶特攻隊、米山製作、バト ミントン、テニス、ゴルフ、一国一社代理店
恩師
人脈三波晴夫、キング夫人、ナブラチュア、 モニカ、ヒギンズ
備考越後の 雪だるま
追悼

氏は2019年11月11日に95歳で亡くなった。「私の履歴書」登場は2005年4月で81歳の時でした。スポーツ用品業界からの登場は、美津濃の水野健次郎氏、アシックスの鬼塚喜八郎氏と米山氏との3人。

氏が、バドミントン、テニス、ゴルフなどのスポーツ用品メーカー・ヨネックス株式会社の創業者として、キング夫人、ナブラチロア、モニカ、ヒギンズ、伊達公子など世界のトップ・プロをテニスのスポーツアドバイザーに起用し、世界企業に発展させた手腕は高く評価された。

 氏は、尋常高等学校卒後、陸軍工廠に入り、軍需工場で銃床づくりの担当となった。ここは木工の機械がそろっており、切削や仕上げの技術学ぶ格好の場となり、家業の木工技術を磨くことができたのだった。

氏は「ピンチはチャンス」と自分に言い聞かせて何度も困難を克服し、事業を拡げていった。最初のピンチは、バドミントンラケットの事業がまだOEM(相手ブランドによる生産)供給だけで、その唯一の納入先が倒産したとき、第二は工場が火災で全焼した時である。最初のピンチはこのHP「学ぶ」の中の「仕事のヒント」に紹介しているのでご参照ください。第二のピンチの火災は、商品の在庫が切れる前に、何としても生産を再開する決意で、大工に無理を言い、社員総出で工事に取り掛かった。豊臣秀吉の墨俣築城あやかって名付けて「一夜城作戦」とした。予定通り工場は3日間で完成したという。転んでも、そのたびにひと回り大きくなって起き上がる。それをモットーにした氏に対して「越後の雪だるま」というあだ名がついた。また、国民的歌手の三波春夫氏とは小学校が同級で、お互い励まし合った仲だったと書いていた。

よねやま みのる
米山 稔
生誕1924年10月15日
新潟県三島郡(現・長岡市
死没 (2019-11-11) 2019年11月11日(95歳没)
新潟県長岡市
国籍日本の旗 日本
職業ヨネックス創業者、名誉会長
受賞藍綬褒章(1987年)
ロンバーディー賞(1998年)
勲四等瑞宝章(2001年)
協会功労賞(イングランド・1999年)
世界バドミントン連盟会長賞(2015年)

米山 稔(よねやま みのる、1924年10月15日[1] - 2019年11月11日)は、日本実業家。スポーツ用品メーカーのヨネックス株式会社創業者。ヨネックスファウンダー・東京新潟県人名誉顧問および新潟県知事泉田裕彦後援会相談役

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク)
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