掲載時肩書 | ヨネックス会長 |
---|---|
掲載期間 | 2005/04/01〜2005/04/30 |
出身地 | 新潟県 |
生年月日 | 1924/10/15 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 81 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 陸軍 |
配偶者 | 幼年友 23歳 |
主な仕事 | 陸軍工廠、船舶特攻隊、米山製作、バト ミントン、テニス、ゴルフ、一国一社代理店 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 三波春夫、キング夫人、ナブラチロア、 モニカ、ヒギンズ |
備考 | 越後の 雪だるま |
1924年10月15日- 2019年11月11日)は新潟県生まれ。日本の実業家。スポーツ用品メーカーのヨネックス株式会社創業者。
1.ヨネックスの基礎は陸軍軍需工場の銃床づくりで
氏は、尋常高等学校卒後、陸軍工廠に入り、軍需工場で銃床づくりの担当となった。ここは木工の機械がそろっており、切削や仕上げの技術学ぶ格好の場となり、家業の木工技術を磨くことができたのだった。
2.1台のモーターから出発
1946年(昭和21)1月11日、4か月余りの沖縄の捕虜生活から解放されて復員した。古里の新潟に帰る途中に見た東京は一面、焼け野原だった。軍隊に入る前に陸軍工廠で働いてコツコツ貯めたお金は、終戦直後のインフレで二束三文になっていた。私は贅沢を一切せず、720円の貯金があった。戦争前なら故郷で家を一軒建てることができた金額である。その価値が生活費の足しにもならないくらい目減りした。裸一貫からの出発である。前途に希望をつないでくれたのは母だった。
戦争中に父が亡くなった後も、母は家業の木工の機械を残してくれていた。一家の大黒柱を亡くし、幼い弟たちを抱え生活は日に日に苦しくなった。親戚が「モーターを売り払えば米二俵になる。当座はしのげる」と勧めた。けれど母は、「稔は必ず帰ってくる。この一台のモーターは稔が木工の仕事をするのに絶対必要だ。これだけは手放せない」と言ったという。私はこの話を親戚から聞いて涙が出た。
私は一念発起、木工の仕事に邁進することにした。復員した46年の7月、米山製作所を設立。母が売り払わずに残した一台のモーターは、創業の地、新潟県長岡市塚野山に建つ工場の会長室に、今も大事に保管している。
3.三波春夫さんを励ましに
三波さんは私と同じ新潟県長岡市塚野山の生まれである。1年上で、小さな小学校だったので同じ教室で勉強することもあった。家も近所にあり、よく一緒に遊んだ。三波さんの家は商店で、本や瀬戸物、学用品などを売っていた。遊びに行って少年雑誌を読むのが楽しみだった。
本名を北詰文司といい、「本屋の文ちゃん」「ゲタ屋のミノル」と呼び合っていた。文ちゃんは小学校で人気者だった。当時から歌が飛びぬけてうまく、浪曲も2,3回聞くと覚えてしまう。13歳で上京、米屋や魚河岸で働くかたわら日本浪曲学校で学び、1939年(昭和14)に浪曲界に入った。
出征と4年間のシベリア抑留を経て、「チャンチキおけさ」で歌手デビューしたのは、私がバトミントンラケットの製造を始めたのと同じ57年(昭和32)だった。文ちゃんは「チャンチキおけさ」の大ヒットで国民的スターへの道を歩み始めていた。
私は61年(昭和36)にラケット納入先のサンバタが倒産し、自社ブランドで独り立ちしようと懸命だったときのことだ。新潟行きの列車に乗る前、ガード下の赤ちょうちんで腹ごしらえをしていると、「チャンチキおけさ」の懐かしい声が流れてきた。「故郷(くに)を出る時、 もって来た 大きな夢を 盃に そっと浮かべて もらす溜息」。思わず目頭が熱くなった。文ちゃんは、どえらく出世したもんだ。それに比べて、おれは、3年で日本一になると、デカイことを言ってみたけれど、いつどうなるか分からない。悔しくて涙をこらえられなかった。
三波さんは2001年に77歳で亡くなったので、顕彰碑を建てようということになり、町を挙げて顕彰事業実行委員会をつくり、私が委員長に就いて募金を集めた。古里の塚野山には今、和服姿で両手を広げて歌う三波さんの銅像が建っている。
4.ナブラチロワ選手と二人三脚でラケット開発
マルチナ・ナブラチロワは先輩のキング夫人と、よくダブルスでペアを組む仲だった。師弟関係という人もいた。キング夫人の影響力は小さくなく、1980年(昭和55)、同時にマルチナともプロスタッフ契約を結べたのは、まずこの「師匠」の心をとらえたことが力になったと思う。
マルチナはキング夫人と対照的だった。キング夫人からはラケットの性能や作り方で、多種多様な注文を貰ったが、ナブラチロワの場合は、新しいラケットを持って行っても、自分に合いそうだ、これはダメだと、そっけない返事があるだけだった。道具へのこだわりが、無いわけではないないのだが、言葉にするのが億劫なようだった。
そんな彼女にこちらも鍛えられた。マルチナ自身もうまく言い表せないラケットへの微妙な要求を、想像し、探り出して形にする。容易でない作業を繰り返した。ちょうど80年代前半はテニスラケットの革新期だった。木製から金属、カーボン製へと変わり、「デカラケ」のように、素材の革新によってフレームの形も柔軟に設計できるようになった。手を替え品を替え、「ナブラチロワ仕様」のラケットを考えた。
代表例がサーブのスピン(ボールに与える回転)を効かせるラケットの開発である。フレームを極力、長方形に近づけ、ボールに回転をつける対角線を長くとった。従来よりスピンがかかるようになり、マルチナのお気に入りになった。87年までウィンブルトンで6連覇し、全豪、全仏、全米のタイトルも獲得した。その陰には彼女と二人三脚のラケット開発があった。
氏は2019年11月11日に95歳で亡くなった。「私の履歴書」登場は2005年4月で81歳の時でした。スポーツ用品業界からの登場は、美津濃の水野健次郎氏、アシックスの鬼塚喜八郎氏と米山氏との3人。
1.「ピンチはチャンス」がモットー
氏は「ピンチはチャンス」と自分に言い聞かせて何度も困難を克服し、事業を拡げていった。最初のピンチは、バドミントンラケットの事業がまだOEM(相手ブランドによる生産)供給だけで、その唯一の納入先が倒産したとき、第二は工場が火災で全焼した時である。最初のピンチはこのHP「学ぶ」の中の「仕事のヒント」に紹介しているのでご参照ください。第二のピンチの火災は、商品の在庫が切れる前に、何としても生産を再開する決意で、大工に無理を言い、社員総出で工事に取り掛かった。豊臣秀吉の墨俣築城あやかって名付けて「一夜城作戦」とした。予定通り工場は3日間で完成したという。転んでも、そのたびにひと回り大きくなって起き上がる。それをモットーにした氏に対して「越後の雪だるま」というあだ名がついた。
2.世界のトップ・プロをスポーツアドバイザーに起用
氏が、バドミントン、テニス、ゴルフなどのスポーツ用品メーカー・ヨネックス株式会社の創業者として、キング夫人、ナブラチロア、モニカ、ヒギンズ、伊達公子など世界のトップ・プロをテニスのスポーツアドバイザーに起用し、世界企業に発展させた手腕は高く評価された。
よねやま みのる 米山 稔 | |
---|---|
生誕 | 1924年10月15日 新潟県三島郡塚山村(現・長岡市) |
死没 | 2019年11月11日(95歳没) 新潟県長岡市 |
国籍 | 日本 |
職業 | ヨネックス創業者、名誉会長 |
受賞 | 藍綬褒章(1987年) ロンバーディー賞(1998年) 勲四等瑞宝章(2001年) 協会功労賞(イングランド・1999年) 世界バドミントン連盟会長賞(2015年) |
米山 稔(よねやま みのる、1924年10月15日[1] - 2019年11月11日)は、日本の実業家。スポーツ用品メーカーのヨネックス株式会社創業者。ヨネックスファウンダー・東京新潟県人名誉顧問および新潟県知事泉田裕彦後援会相談役。