掲載時肩書 | 日本ガイシ相談役 |
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掲載期間 | 1994/06/01〜1994/06/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1917/06/19 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 一中 |
入社 | 日本ガイシ |
配偶者 | 友人妹 |
主な仕事 | 名古屋、東京、大阪、排ガス規制、NHK経営委員長、 多治見CC、トラファン |
恩師・恩人 | 大倉和親、野渕三治、森村勇 |
人脈 | 祖父&父:森村組幹部、黒澤明、渥美健夫、伊藤次郎左衛門、佐伯勇、高田好胤、伊藤肇、城山三郎、田中精一 |
備考 | 病気のデパート、安岡正篤語録 |
1917年(大正6年)6月19日 – 2003年(平成15年)5月23日)は東京生まれ。実業家。1942年9月、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。祖父も父も奉職していた森村財閥の番頭・大倉和親のとりなしで、日本碍子(のちの日本ガイシ)入社。1977年、社長に。主に関西方面でのシェア喰い込みに尽力した。元日本ガイシ会長、ワシントンホテル取締役。NHK経営委員長、日経連(当時)副会長、JR東海監査役などを歴任した。
1.森村組の起源
祖父と父がかかわり、私も50年以上も籍を置いた「森村」のことを記しておきたい。森村家は遠州(静岡県)森村(現小笠郡菊川町)の出身で、江戸時代中頃は京橋で武具、馬具、小間物を製造販売していた。後に「森村組」を創業した森村市太郎氏(六代目市左衛門)は1839年(天保10年)の生まれ。安政の大地震で傾いた家運を、昼は肉体労働、夜は夜店で小間物を売り、再興した。「独立自営」はその時以来、森村家の商人哲学になる。目端が利く知識欲も旺盛な人で、旗本や各藩に出入りして商売を大きくする一方、中津藩では福沢諭吉の知己を得て、その西洋流の合理的な考え方に傾倒していった。
市左衛門は日米修好通商条約の批准のため渡米する外国奉行の路銀の調達を任された。当時、国際通貨のメキシコ銀と一分銀を同じ重さで交換した。小判と一分銀の比率は1対5だが、外国の金銀比価は1対15。外国人がメキシコ銀を一分銀に換え、金の小判に換えて大儲けしていることを知った。市左衛門は「日本の金がなくなる」と福沢にただすと「それは交易でしか取り戻せない」と福沢は教えた。
この時の「貿易立国」の思いが、後の明治9年(1876)に森村組を設立し、弟の豊をニューヨークに送って輸出業を始めることになる。想像もつかない米国人の風俗、生活、嗜好を研究するなど苦労を重ね、森村組は洋食器の輸出で成功する。
2.ガイシの為替レートは破格
戦後〈1945〉、東京での営業マン生活はGHQ担当で始まった。数人いた営業所員の中で「いちばん若いから英語の歩留まりがいいだろう」という理由だった。当時はGHQの経済科学局による管理貿易で、オーストラリア、インド、東南アジア向けにガイシの引き合いが多くGHQに毎日のように通った。
窯業の担当はロバート古寺博という早大出の日系二世だった。戦前、森村ブラザースのニューヨーク店に勤務していた人で、その頃、映画監督のヒッチコックが倉庫係でいたそうだ。為替レートは昭和24年〈1949〉4月に1ドル360円に一本化されるまでGHQが商品ごとに決めていた。生糸が1ドル420円、綿が250円、茶が330円の時に、食器やガイシは500円を認めてもらったこともある。破格レートで当社はありがたかった。
3.排ガス浄化用触媒担体(ハニセラム)は救世主
昭和52年(1977)6月、私は60歳で社長に就任した。46年〈1971〉のニクソンショックで輸出が売上高の約30%を占めていた日本ガイシは打撃を受けた。就任時に私は徹底した効率経営を推進した。そして市場重視の事業展開、開発の重視と展開、財務体質の強化の3つを具体的な指針として掲げた。
事業を見直してスクラップ&ビルドにすると言っても、スクラップすればその事業の人が余る。また、いったん始めた事業を止めれば、士気にもかかわる。いくつかの事業から撤退したが、これを救ってくれたのが、自動車排ガス用触媒担体(ハニセラム)が事業として立ち上がった。この新事業が人を吸収してくれたのだ。
ハニセラムは主に円柱状の焼き物に無数の小孔の壁に触媒を付け、通過する排ガスをクリーンにするものだ。1970年に米国でマスキー法が成立し、自動車の排ガス浄化が急務になっていた。排ガス処理方式は米GMが採用したペレット方式が主流だったし、未経験の自動車分野への進出するには不安を多く、当初社内には消極論も多かった。しかしオイルショックで燃費に優れたハニカム(ハチの巣構造)方式の方が有利になり、76年に米フォードのテストに合格して、本格生産に乗り出した。
自動車部品とはいえ、ガイシ製造技術の基盤の上にある製品。しかもたまたまガイシ生産量が減って、設備能力が余っていた窯を使える。金も時間も節約できた。従来の設備を使い、技術の蓄積を生かして、余った人員で新製品を生産するという、たいへん恵まれたケースだった。今やこの事業は、ベルギーと米国に生産拠点をつくり、日米欧三極での生産体制が整備された。