竹田恒徳 たけだ つねよし

行政・司法

掲載時肩書国際オリンピック委員会委員
掲載期間1976/04/02〜1976/04/30
出身地東京都
生年月日1909/03/04
掲載回数29 回
執筆時年齢67 歳
最終学歴
陸軍大学校
学歴その他学習院
入社鎮撫使
配偶者三条実美2娘
主な仕事昭和最初の皇族(竹田宮)、馬術:息子 (恒和:IOC委員)、大本営参謀、関東軍参謀、
恩師前田利為
人脈白洲次郎、早川種三、西竹一中尉(6歳上)、山下奉文、本間雅晴将軍、瀬島龍三(関東軍後任)
備考大名跡地 詳しい、虎ニーズ:髭、骨 、肉、皮
論評

1909年〈明治42年〉3月4日 – 1992年〈平成4年〉5月11日)は東京生まれ。日本の旧皇族(竹田宮第2代当主)、陸軍軍人。竹田宮恒久王の第1男子。最終階級は陸軍中佐。勲等は大勲位。母は明治天皇の第六皇女・常宮昌子内親王。昭和天皇は従兄であり、その皇后である香淳皇后は再従姉にあたる。1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱。皇籍離脱直後に公職追放となる。1950年(昭和25年)に日本スケート連盟の会長就任を要請されたのをきっかけに、スポーツ界での活動を開始する。なお、三男恒和は日本オリンピック委員会会長を務めた、また日本馬術連盟副会長を務めている。

1.西竹一中尉(バロン西)さん
昭和7年(1932)のロサンゼルス五輪に西さんが大障害飛越競技で優勝し、「バロン西」の名を世界にとどろかせた。男爵家に生まれた西さんは学習院、幼年学校、士官学校、そして騎兵第一連隊と進んだ。私は西さんと同じ道を後ろからついて行ったわけだが、そればかりでなく、私にとって6歳上の西さんは、馬術と酒と遊びの指導者であり、生涯忘れ得ぬ人であった。
 西さんは馬術の天才だった。特に競技になるとすばらしい勝負根性を発揮し、観衆が多ければ多いほど技が冴えてくる人だった。西さんのオリンピック優勝には、名馬ウラヌス号との出会いを見逃すことができない。ロス五輪の2年前、イタリアの騎兵学校に留学中だった今村安少佐から、「良い馬が売りに出た。見逃すのは惜しい」との知らせがあった。西さんは馬術の恩師だった今村さんを深く信頼し、直ちに見ずてんで「私が買う」と打電した。その馬がウラヌスである。決断力の良さも西さんの特徴だった。

2.蒙古で狩猟
昭和13年(1938)に陸軍大学校を卒業した。私は結婚した妻とノモンハンも警備地域となる蒙古高原に大佐として赴任した。私は蒙古人とつとめて親しくした。彼らはパオという天幕をもって転々とする遊牧の民であり、主食は羊で、その丸煮をご馳走してくれる。いま流行のジンギスカン料理徒は似ても似つかない素朴なものであるが、塩味でなかなかおいしい。
 そのころ中国では戦争が進展していたが、満州(現中国東北)はまだ平静だった。そこで時々猟を楽しんだものだ。自動車を駆ってオオカミ、ノロ(鹿の一種)、雁と七面鳥の合いの子のような山七面鳥などを獲った。広々とした蒙古では、隣と言えば10里(約40㎞)もある。そのくらい広い原野にいる獲物を追うのだが、オオカミやノロは逃げるときに直線的に走らず、どうしてか円を描く。そこで近道をとって道なき道を飛ばすと1時間くらいでオオカミやシカは心臓が参る。そこを仕留める。日本のイノシシ狩りなどとは随分違った。
 この満州では虎のスキヤキを食べたことがある。白い身で脂濃かったが、柔らかく、結構おいしかった。日本では「虎は死して皮を残す」と言い、皮をもっとも珍重するが、中国ではヒゲを一番大切にする。虎のヒゲは折れず曲がらず大人の爪楊枝に使うほか、不老長寿の薬にもするという。次は骨で虎骨酒という貴重な酒の材料になる。3番目は肉で、土地の人は喜んで食べる。皮はやっと4番目なのだそうだ。

3.皇籍離脱
昭和22年(1947)10月14日、マッカーサー指令によって、私は皇籍を離脱した。つまり一般国民の仲間入りをしたのである。それにより私の生活はまったく一変した。第一に歳費という生活の基礎が切られてしまった。自活の道を立てなければならない。もうそれまでのような広い屋敷を維持することもできない。たくさんいた使用人とも別れなければならない。その上、財産税までかかって来て、泣きっ面にハチだった。
 そこで屋敷の大部分を売り払い、いまの高輪プリンスホテルになり変わった。私は邸内の片隅に小さな家を建てて引っ越した。それを急いだのは、人生に向かい、心構えを早く新しくしたいと思ったからである。今考えると、そのころが私の一生で一番つらいどん底だったと思う。

竹田宮恒徳王
竹田宮
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続柄

身位 →(皇籍離脱)
敬称 殿下→(皇籍離脱)
出生 1909年3月4日
日本の旗 日本 東京府
死去 (1992-05-11) 1992年5月11日(83歳没)
配偶者 三条光子
子女 恒正王
素子女王
紀子女王
恒治王
恒和
父親 竹田宮恒久王
母親 恒久王妃昌子内親王
役職 陸軍軍人陸軍中佐)、繊維会社経営、日本オリンピック委員会委員長、国際オリンピック委員会理事、国際オリンピック委員会名誉委員、日本馬術連盟会長、日本スケート連盟会長、全国ラジオ体操協会会長、日本体育協会専務理事 など
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恒徳王と同妃光子

竹田 恒徳(たけだ つねよし、1909年明治42年〉3月4日 - 1992年平成4年〉5月11日)、または竹田宮恒徳王(たけだのみや つねよしおう)は、日本旧皇族竹田宮第2代当主)、陸軍軍人竹田宮恒久王の第1男子。最終階級陸軍中佐勲等大勲位1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱した。

母は明治天皇の第六皇女・常宮昌子内親王昭和天皇は従兄であり、その皇后である香淳皇后は再従姉にあたる。また上皇は従甥、今上天皇は従姪孫にあたる。

妹の禮子女王佐野常光に嫁す。

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