立石義雄 たていし よしお

電機

掲載時肩書オムロン名誉会長
掲載期間2012/11/01〜2012/11/30
出身地大阪府
生年月日1939/11/01
掲載回数29 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
同志社大学
学歴その他
入社立石家業
配偶者NY万博コン パニオン
主な仕事御室(オムロン)、西式健康、能楽、NY, 無人省力化、社長への手紙(3000名に)、
恩師
人脈津川雅彦(小・同級)、冨山和彦、大前研一、水谷顕(山)
備考父:一真 創業者
追悼

氏は‘20年4月21日に新コロナ感染で80歳で亡くなった。この「履歴書」登場は’12年11月の73歳のときであった。親子が実業家でこの「私の履歴書」に登場したのは、五島慶太・昇(東急グループ)と井植歳夫・敏(三洋電機)、立石一真・義雄の3組だけである。

氏は「私の履歴書」の初日に、父親をつぎのように紹介している。
私は3男で、父の後に社長になった長兄・孝雄に次ぐ三代目。47歳のとき、父に「社長をやらんか」と言われ、父や長兄と違って技術系ではないのを気にする私を「市場の側から技術を見ろよ」と諭した。それが私の中で「顧客から学ぶ」に育った。
父は思索と実行の人で、真骨頂は確固たる理論と考察に裏打ちされた未来予測にあった。社会の変化の中で人が生き生きと創造的に暮らす道を考え、その過程で生じるニーズをいち早く創造して製品開発をしろと説き、実践した。
とある。氏は経済学部出身で、入社以来一貫して営業現場を飛び回ってきた。だから現場の顧客意見や市場ニーズはいち早くつかむことができた。それを父親は理解していたからこそ、「市場の側から技術を見ればいい。その代わり、技術者の気持ちを分かってやれ」と助言されたのだと思う。これらを忠実に守り実行したことで、世界企業に押し上げることができたのだろう。

氏は御室(おむろ)小学校に通っていたが、同級生に俳優の津川雅彦がいた。彼は子役で映画によく出ていて、よく学校を休んだが、「色白の貴公子」と呼ばれ、クラスの人気者だった。彼は氏の家にも遊びに来たが、目当ては氏の隣に住む同級生のフランス人形のような美少女だった。体が弱くて学校を休みがちだから、給食のパンを届け出る役割を彼が強引に申し出た。そして、わざわざ遠回りして、鳴滝までいそいそと足を運ぶのだから、少年のころから女性にはマメだったと書いている。しかし、氏も女性にマメだったに違いない。ニューヨークに赴任中、1962年ニューヨーク万博の日本館コンパニオンに選ばれた10人の一人をデート3度目でゲットしたのだから、その実力が推し量られる。この赴任中にジョン・F・ケネディの暗殺事件が起こったとある。氏の24歳の時だった。

立石 義雄(たていし よしお、1939年昭和14年)11月1日[1] - 2020年令和2年)4月21日[2])は、日本実業家オムロン創業者立石一真の三男で、同社代表取締役社長や、同社代表取締役会長京都商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭等を歴任した。

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  2. ^ 弊社名誉顧問 立石義雄 逝去のお知らせ | オムロン”. www.omron.co.jp. 2021年1月20日閲覧。
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