掲載時肩書 | 京セラ名誉会長 |
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掲載期間 | 2001/03/01〜2001/03/31 |
出身地 | 鹿児島県 |
生年月日 | 1932/01/21 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 鹿児島大学 |
学歴その他 | 玉龍高 |
入社 | 松風工業 |
配偶者 | 社内結婚 |
主な仕事 | 京都セラミック、海外売込、アミーバ経営、IBM受注、米国進出、人工宝石、ヤシカ、DDI、京都賞,京セラ文庫、盛和塾 |
恩師・恩人 | 内山正夫 教授 |
人脈 | 森山信吾、瀬島龍三、牛尾治朗、飯田亮、盛田昭夫、森繁久彌、千本倖生、塚本幸一、有馬頼底、梅棹忠夫、安藤忠雄 |
備考 | 敬天愛人 在宅出家 |
1932年(昭和7年)1月21日 – )は鹿児島県生まれ。実業家。京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者。公益財団法人稲盛財団理事長。「盛和塾」塾長。日本航空名誉会長。独特な経営管理手法は「アメーバ経営」と呼ばれる。稲盛は全国に支部を持つ盛和塾と、PHP研究所や致知出版社などの出版社から出版した多数の経営指南書・自己啓発書を通じ、アメーバ経営や自らの経営哲学・理念の啓蒙・普及に努めている。また、稲盛哲学を中国に広め、中国人経営者の心を高めるために「稲盛和夫管理顧問有限公司」を北京に設立しており、中国でベストセラーになった稲盛の著書もある。
1.アメーバ経営の精神
1964年(昭和39)4月、京都セラミックは創業5周年を迎えた。28人で発足した会社は150人を数えるまでになった。町工場からそこそこの人数になってきた。私は個人の能力を最大限発揮させ、生きがいを持たせるにはどうしたらいいか考えた。思案の末、創業時に戻ればいいと思い当たった。全員が経営者になるのだ。全体を工程別、製品群別にいくつかの小さな組織に分け、それぞれが一つの中小企業のように独立採算で自主的に運営する。固定したものではなく、あたかもアメーバのように自己増殖していく。
ただし、いくら好業績をあげてもそれがすぐ給与に直接、反映されるわけではない。与えられるのは名誉と誇りだ。みんなのために貢献したという満足感と、仲間からの感謝こそ最高の報酬である。フェアプレーの精神で堂々と競い合い、自分の能力を高めることは生きがいに通じるはずだ。会社全体がガラス張りで、相互に信頼関係が築かれていなければ正常に機能しない。考え方のベースを揃えることが何より大事だ。金をエサに働かせようとか、逆に労務管理の手段にしようとしたら、会社はバラバラになってしまう。アメーバは今3千を超え、なお繁殖をやめようとしない。
2.京都賞の創設
「社会還元のために財団をつくり世界的な賞を出したいが、50歳そこそこで早過ぎないだろうか」と森山信吾副社長に相談すると、「善は急げです。財団づくりは私がしましょう」と励まされた。こうして1984年(昭和59)に財団法人、稲盛財団が発足、「京都賞」の創設を決めた。瀬島龍三氏(伊藤忠商事特別顧問)に財団の会長をお願いした。基金として私が所有していた京セラの株と現金約200億円(現在は約640億円)を拠出した。
賞金はノーベル賞に近い一人5千万円に設定した。対象は先端技術、基礎科学、精神科学・表現芸術の3部門。科学技術と精神面の両者がバランスよく発展してこそ人類の未来がある、と言うのが私の考えだ。式典は毎年11月10日と決め、国立京都国際会館で三笠宮崇仁殿下、同妃殿下(途中から高円宮殿下、同妃殿下)のご臨席のもと催されている。
3.盛和塾の経緯
1980年、私は京都青年会議所の青年経営塾で講演した。その二次会で若手経営者たちから、「どうしたら成功できるのか、我々に経営を教えてください」と懇願された。時間がないと断ったが、何度も頼まれるうちに、若い経営者の役に立てるならと引き受けることにした。やがて私を囲む勉強会が「盛友塾」という名前でスタートする。実際、始めて見ると、若手経営者たちはとても熱心だ。経営に関するあらゆる疑問を投げかけ、私がそれに答えると、海綿が水を吸うように吸収していく。
私は最初に経営ノウハウを伝授するつもりはないと断った。企業経営はトップが持つ哲学、理念によって大きく左右されると考えている。若手経営者にはトップとして持つべき「経営哲学」こそ伝えたい。トップの器が大きくなれば、会社も自然と発展すると確信している。
その後、大阪にも新たな塾を開講し、これを機に「盛和塾」と名を改めた。さらに神戸、東京と新たな塾が次々に増え、各地で入塾を希望する経営者が後を絶たなかった。今、盛和塾は海外3塾、国内51塾を数える。塾生は、上場・店頭公開企業70社を含む中小企業の経営者たちで3千人を超える。
4.KDDI発足で情報通信の健全発展に
20世紀もまさに終わろうとする2000年10月1日、国内第2位、世界でも10指に入る総合電気通信会社、KDDIが誕生した。明治以来100年余り、国内通信は国家事業として独占的に運営されてきた。しかし、中曽根康弘総理のリーダーシップのもと、土光臨調(第二次臨時行政調査会)が82年、最も適切な競争の仕組みを設け、独占の弊害を除くとともに、規模の適正化を図るべきと、電電公社の分割・民営化を答申。
私は分割されたNTTの長距離通信部門と競争するものと信じ、84年、DDIを創業した。ところが、NTTの分離分割は遅々として進まず、DDIは当初、予想もしなかった巨大なNTTとの苦しい競争を余儀なくされた。厳しくとも、国民により良いサービスを安く提供することは、善きことであるという信念で経営を続けた。
その結果、例えば東京―大阪間の通話料金は3分間400円を80円まで下げることができた。携帯電話分野でも、厳しい競争を続け、利用料金は劇的に下がった。経営的には大変でも国民には良かったと思う。
99年7月、NTTは新しい経営形態に移行したが、それは当初の方針とは全く違っていた。NTTは純粋持ち株会社として残り、東日本、西日本、長距離部門などが形式的に分離分割されただけだった。しかも、それまで独立して運営されてていたNTTドコモまでも傘下に入り、国際通信部門も持てるようになった。結局、NTTは以前にもまして一体的な経営ができるという、さらに強大なものになったのだ。
このままでは日本の通信情報産業の健全な発展は不可能になる。そのような危機感を持った私は、NTTの対抗勢力が大同団結するしか方法がないと考えた。そしてまず、停滞電話分野でNTTドコモに対抗するため、関東・東海地区で事業を行っているIDOとの合併が必要となった。そうしてKDD,IDOの親会社であるトヨタ自動車の奥田碩会長や張富士夫社長などにお会いした。また、KDDの中村泰三会長や西本正社長にもお会いして、日本の通信情報産業を健全に発展させることをお願いし、合意していただいた。
氏は2022年8月24日、90歳で亡くなった。「私の履歴書」に登場は‘01年3月の69歳の時でした。「経営の神様」と謳われた松下幸之助氏に次いで多くの経営者から敬愛を受けた方であった。氏は京セラを創業し、KDDIも創業、そしてJALの再建を成し遂げただけでなく、盛和塾で多くの経営者を育成し、そして私財200億円を拠出して京都賞を創設、世界の学術、科学、文化の振興に尽力された。氏の「私の履歴書」記載から経営の心構えの原点はどこにあるのかを考えてみました。それはきっとこの時点ではないかと想像するのです。それは次の箇所です。
1959年(昭和34年)、松風工業から行動を共にした同志8人で京都セラミツク(現・京セラ)を設立し、結束のため8名の血判状にも署名した。そしてわき目もふらずに働き続けて1年目から黒字決算を果たす。ところが創業3年目の1961年(昭和36年)、前の年に入った高卒社員11人が突然、「定期昇給とボーナス保証」の要求書を提出してきた。そして「この要求を認めてくれなければみんな辞めます」という。小さな会社であり、彼らのまじめな勤務ぶりは知っていた。就業時間は朝8時から午後4時45分となっていたが、実際には深夜まで残業が日常化していた。松風工業以来のメンバーは徹夜もいとわずという社員ばかりで時間の観念がなかった。ただ、中卒の社員は夜間高校に通うため定時に帰らせる。それが高卒になると、当然のように何時間でも上司に付き合わされ、時には日曜まで駆り出される。そんな不満が積み重なっていたようだ。
稲盛氏がいくら説得しても、「毎年の賃上げは何パーセント、ボーナスは何カ月と約束してくれなければ辞めるだけだ」と譲らない。そこで幹部とひざを突き合わせての交渉が3日間にも及んだ。氏は「来年の賃上げは何パーセントというのは簡単だ。でも実現できなければウソをつくことになる。いい加減なことは言いたくない」と誠意を込めて説得する。すると一人、そして一人とうなずき、最後に一人だけ残った。「男の意地だ」となお渋る一人に、「もし、お前を裏切ったら俺を刺し殺していい」と迫ると、氏の手を取って泣き出した。この時、氏は初めて会社責任の重さと経営責任の永続性に気付いたのだった。それを次のように書いている。
そもそも創業の狙いは自分の技術を世に問うことであった。この反乱に出会って私の考えは大きく変わった。こんなささやかな会社でも、若い社員は一生を託そうとしている。田舎の両親の面倒をろくにみられんのに、社員の面倒は一生みなくてはいけない。これが会社を経営するということなのか。この体験からこんな経営理念を掲げるようになった。「全従業員の物心両面の幸福を追求する」。私の理想実現を目指した会社から全社員の会社になった。生涯かけて追及する理念として、この後にこう付け加えた。「人類、社会の進歩発展に貢献すること」と。
この5年後の1966(S41)年に稲盛氏は社長に就任されるが、その間「全従業員の物心両面の幸福を追求する」の経営理念はゆるがない。そしていろいろと哲学書、宗教書、経営書など人生や経営にプラスする本を読み、経営講演などにも時間を見つけて出かけられたと思う。これがのちに「京セラフィロソフィー集」に結実する。「人間として何が正しいのかで判断する」「公正、公平、誠意、正義、勇気、愛情、謙虚な心を大切にする」「利他の心」などを決めた。その後もKDDIなど新しい事業に取り組む前に、「国民の利益のためにという使命感に一点の曇りもないか」「動機善なりや、私心なかりしか」を自分に厳しく問い詰めて着手し、多くの人の支持や協力を得て、事業成功に導いたのでした。最近の著書「心。」をサンマーク出版から出された。「すべては“心”に始まり、”心“に終わる」という見出しで、いまでも「人生は心の持ち方が一番大切」と最重要視されている方でした。「虎は死して皮を残す」と言われますが、氏が亡くなっても、人財が残り、京都賞が残されています。経営者だけでなく、科学者、芸術家、アスリートなど多くの人から敬愛され、惜しまれた別れでした。
いなもり かずお 稲盛 和夫 | |
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2011年 | |
生誕 | 1932年1月21日 鹿児島県鹿児島市薬師町[1] |
死没 | 2022年8月24日(90歳没) 京都府京都市伏見区 |
出身校 | 鹿児島大学工学部 |
職業 | 実業家 |
影響を受けたもの | 西枝一江 西片擔雪 西郷隆盛 中村天風 松下幸之助 |
影響を与えたもの | 永守重信 任正非 馬雲 |
稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年〈昭和7年〉1月21日[注 1] - 2022年〈令和4年〉8月24日[2])は、日本の実業家、技術者。京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者。公益財団法人稲盛財団理事長。「盛和塾」塾長[3]。日本航空名誉会長。
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