福田千里 ふくだ ちさと

金融

掲載時肩書大和証券社長
掲載期間1961/09/01〜1961/09/27
出身地東京都赤坂
生年月日1896/10/20
掲載回数27 回
執筆時年齢65 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他三高
入社藤本ビル ブローカー銀行
配偶者川上銀行娘:恋女房
主な仕事秘書、藤本ビルブローカー(銀行→証券)→藤本証券(投資組合部)→大和證券、川崎造船事件、野球部創設
恩師・恩人平賀敏初代、渡辺安太郎社長
人脈河上肇・賀川豊彦(影響)、小林一三(長男同年)、杉道助、武藤山治、出光佐三、藤本英雄(野球部監督)
備考信条:細心大胆、社歌の作詩
論評

明治29年10月20日(1896)-平成4年(1992)12月26日東京生まれ。 昭和時代の経営者。大正10年藤本ビルブローカー銀行(現大和証券)にはいる。昭和32年社長,38年会長。日本最初の積み立て投資業務の開始,国際部門の強化など,積極的な経営方策をとる。日本証券保有組合の設立につくした。

1.恩人:平賀敏氏の訓え
大正10年(1921)に藤本ビルブローカー銀行に入社した。社長は平賀敏さんであった。その頃の平賀さんは、阪急、山陽中央水電(現中国電力)、日本簡易火災保険の社長や鐘紡の社外重役などを兼務し、名実ともに関西財界の重鎮であり、大看板であった。阪急はじめ箕面有馬電気軌道といっていたが、平賀さんはそこへ三井銀行から小林一三さんを迎え入れて専務とし、やがてそこから宝塚歌劇や宝塚温泉などの奇想天外な構想が飛び出して、いよいよ阪急の発展期がやってくるのである。
 大正12年に私は平賀さんの秘書を仰せつかった。平賀さんはよく「経営者は、きちんとした組織をつくって、そこに適材を当てはめていくように努力しなければならない」と力説し、また「人を使うには清濁併せ呑まねばならない。どんな人間にも長所ばかりではなく、短所のあるのは当たり前で、人を使うものはその長所を生かしていかねばならない。あの男はああだからと、人事に感情をまじえていけない」と言われたが、そんなとき私は、全身を耳にして傾聴したものである。そして、「福田君、君は”細心大胆”という言葉を知っているか。大胆の陰には常に細心の裏付けがなければ、単なる向こう見ずとなる」と言われた。

2.藤本ビルブローカー銀行が大和証券になるまで
藤本が証券業を専業とするようになったのは、昭和8年(1933)に銀行法が改正され、銀行の証券業兼務ができなくなったためである。藤本にしてみると、銀行には違いないが、ビルブローカーが本業なので、預金は殆どなかった。そこでこの際、兼業部門の証券業務一本で行こうとなった。こうして昭和17年に「藤本ビルブローカー銀行」から「藤本証券」に変わった。そしてせっかく証券業と銘打ったからには、公社債類ばかりでなく株式も扱わなければということで始めたが、そこは素人の悲しさで最初は心細い思いをした。
 昭和18年になると政府は盛んに企業合同による強化を図ってきたが、そのうち証券業界にも大蔵省から合併しろという通達が来た。相手は日本信託銀行で島徳蔵氏が創設者だった。ここと藤本はかなり大量の株の持合いをしていて親類づきあいの間柄だったので、合併の話は順調に進み、社名を「大和証券」と改め、資本金1900万円で18年12月にスタートを切った。名付け親は日銀総裁の結城豊太郎氏であった。命名の理由ははっきりしないが、おそらく「大きく和す」ということであったと思う。

3.出光佐三さんの花柳界貢献
昭和9年(1934)6月、私は突然門司支店長を命ぜられた。そのころの門司は殷賑(いんしん)そのものであった。港は朝鮮、台湾、満州に直結して、扇のカナメみたいな地位にあったから、その活況は推して知るべしだ。したがって、400人の芸者を擁する花街の賑わいも大変で、立ち並ぶ料亭は、さながら不夜城の観を呈したものである。
 当時の門司商工会議所の会頭は、いま出光興産に号令している出光佐三氏で、その勢威には当たるべからざるものがあった。出光さんはなかなかの粋人でもあって、門司の芸者を5人、10人と組合せ、交代で東京に留学(?)させ、歌舞音曲の修業をさせた。そんなこともあって、門司の花柳界の評判は、日ごと夜ごとに高まった。何しろ、出光さんの勢力はものすごかった。ロータリークラブも、まだ東京や大阪に1つか2つしかなかった時代に、出光さんはいち早く門司につくり、銀行の支店長とか会社の工場長や支店長を加盟させたもので、私もおかげでロータリアンになった。
私たちは、毎日うんと仕事をしたが、夜ごとに繰り広げられる社交場にも出入りしなければならなかった。ときどき本社から「門司の業績は認めるが、それにしても金の使い方が、ちと荒すぎる」と注意された。

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