掲載時肩書 | 資生堂会長 |
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掲載期間 | 1997/10/01〜1997/10/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1931/03/14 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 66 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶応予 |
入社 | 資生堂 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 在庫削減、「手紙箱」「広告部」、東レと連携キャンペーン、福原道場(開発),世界進出、メセナ運動 |
恩師・恩人 | 吉田小五郎、大野良雄 |
人脈 | 山下俊彦、梁山泊(画家、彫刻家、詩人、文学者)、仲條正義、西堀栄三郎、川喜田二郎、セルジュ・ルタンス |
備考 | 趣味(史記、洋蘭、カメラ)、祖父・薬局長、 |
1931年3月14日 – )は東京生まれ。実業家。資生堂名誉会長。資生堂社長、会長を歴任。資生堂創業者・福原有信の孫。東京都写真美術館館長、企業メセナ協議会名誉会長(前理事長、前会長)、日仏経済人クラブ日本側議長、日伊ビジネスグループ日本側議長、世界らん展日本大賞組織委員会会長など公職多数。銀座通連合会前会長、日本広告主協会前会長なども務めた。近々では、公益法人制度改革に関する有識者会議座長をつとめる。
1.福原さんへの手紙箱
昭和62年(1987)5月、大野義雄社長が急逝されたため、急遽後継社長に指名された。社長に就任して約1年が過ぎようとしていたころ、全社員に「所感」というタイトルの手紙を送って、私の気持ちや、改革に向けての情熱を訴えることにした。それも活字では意味がない。学生の頃から使い慣れたパーカーの万年筆で、私のヘタな自筆で便せんに7枚に書いたものを印刷して、社員ひとり一人に配ったのだった。
社長から社員個人宛に手紙をもらうのは初めてだと、評判になったし、たちまち社員からの反応があり、返事が次々と寄せられた。「福原さんの考えていることがよくわかった」とか「こんな字のヘタな人が社長になれるのだから、私もまだ頑張れると元気が出た」というのもあって、楽しかった。この社員の反応を目にして、人事部が社長に手紙を書くよう広く呼びかけ、「福原さんへの手紙箱」を設置した。
手紙箱には、メッセージが盛んに届いた。それらのすべてに返事を書くのは大変な仕事ではあったが、社員の積極的な反応には、経営者冥利に尽きる気がした。
2.広告の歴史
昭和30年(1955)代の半ばに、仲條正義が芸大を出て資生堂宣伝部に入ってきた。この宣伝部の名を広めたスタッフは、みな相次いでこの時期に入社する。仲條君は資生堂の買い物袋をメディアにしようと、見事シンプルでモダンな意匠に仕上げてくれた。
資生堂が初のキャンペーンをはったのは、36年のことだ。口紅を中心とする「キャンディトーン」である。この色調は、日本流行色協会がこの年の色として指定した“サニー・トーン”を基にしたもので、メーキャップ製品を若年女性層に訴求することを目的とした。実は肌の手入れ用の基礎化粧品こそ充実していたものの、口紅などのメーキャップ製品では立ち遅れていた。このキャンペーンを機に、製品構成を強化しなければならない・・という差し迫った事情もあったのだ。
宣伝部のスタッフ、アートディレクター中村誠、デザイナー・イラストレーター水野卓史、コピーライター犬山達四郎のトリオが、「キャンディトーン」のパステル調の色調を簡潔に伝える、すばらしいポスターを生み出したのだった。このキャンペーンは、資生堂の広告の歴史に新たなページを加え、同時に米国流のマス・マーケティングの意味を教えてくれた。
3.福原「道場」から「学校」へ
昭和44年(1969)、アメリカ資生堂を3年間経営した後、本社に戻り、チエイン部販売企画次長に就いた。企画部経て、商品開発部を任された。この商品開発部は面白かった。商品開発の仕事は、私に向いているのだろうか。「インウイ」「タクティクス」をはじめ海外専用ブランド「モイスチュアミスト」「シセイド―フェイシャル」などをつくり、これが大ヒットした。かって製品開発課時代に、企画を立てては商品の開発が時代に先行していたり、研究所の化学者たちから、相手にされなかったしていたことを思うと、今昔の感にとらわれたものだ。この間10数年、時代の変化は大きいものがある。
この商品開発部でも、能力開発を目指して、部員に勉強を求めた。これが、今度は「福原学校」と呼ばれるようになった。「道場」が「塾」となり、最後は「学校」までに格上げされたわけだ。