石田和外 いしだ かずと

行政・司法

掲載時肩書最高裁長官
掲載期間1972/01/01〜1972/01/29
出身地福井県
生年月日1903/05/20
掲載回数28 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社東京地方裁判所
配偶者佐々木 師の娘
主な仕事福島裁判所、長野地方裁判所赴任、東京裁判所、帝人事件、剣道・裁判官の交遊
恩師・恩人佐々木保蔵(剣道)、草鹿龍之介
人脈福田一、稲山嘉寛、曽祢益、松尾伝蔵大佐、三宅正太郎、藤井五一郎、西久保良行
備考妻は私が球根からチューリップの花までに育てたと言われた
論評

1903年5月20日 – 1979年5月9日)は福井県生まれ。裁判官(第5代最高裁判所長官)、剣道家(第2代全日本剣道連盟会長、一刀正伝無刀流第5代宗家)、政治活動家(「元号法制化実現国民会議」初代議長)。高校時代に剣道師範の佐々木保蔵の薫陶を受け、後年、佐々木の娘を妻にする。裁判官時代に、剣道の正しい道を古流に求め、一刀正伝無刀流の草鹿龍之介に入門。後に第5代宗家を継承する。笹森順造に小野派一刀流(弘前藩伝)も学び、免許皆伝を受ける。宝蔵院流高田派槍術、一心流薙刀術の伝承・復元の中心人物でもある(現在は宝蔵院流第18代宗家とされている)。

1.師:佐々木保蔵氏(愛な娘をわが妻に)
佐々木さんは一高の先輩であり、一高を一年落第し、さらに大学ではゆうゆう8か年在学した明治型の豪傑であった。剣においては、その当時の一高師範・神道無念流、根岸信五郎の允可(いんか)を得、在学中すでに素人の域を脱して一家をなしていた。
 彼の行動は全く天衣無縫で、見栄とかしきたりとかの形式上の安住を極度に嫌い、どこまでも深く掘り下げて、物の本質に徹して真実一路、誠実に生きようと努めていた。大正10年(1921)春、合宿の稽古を千葉で行った。そのとき、仲間たちが座敷でがやがや雑談に興じていたころ、私は自分の家のような気持で庭に出て、箒で庭を掃いていた。そして、ふいと座敷の方に目をやると、佐々木先輩との視線が合い、私はその中に温かい懐かしいものを感じた。それから懇親の度は高まったが、稽古は厳しかった。

2.剣の目標・・「心で心を打つ」極意
佐々木さんによれば、剣の修業の場は道場だけでなく、行住座臥(ざが)、心を用いなければならないと説かれた。剣の修行はしょせん千変万化、この身に迫ってくるものに対して臨機応変、活殺自在の働きができるようになることが目標だと思うが、そのような妙境に達するためには、身、気、力(技)がうまく調和一致するよう修練に修練を重ねねばならないと同時に、さらに進んで、心そのものの鍛錬を忘れてはならず、この点で動、静と態様は異なるけれど禅と相違する。
 後年、縁あって小野派一刀流、一刀正伝無刀流、直心影流などの古流の神髄にも触れ、組み太刀、伝書などを通じて感じ得たるところによるも、先輩佐々木氏らの教えは正しく、私の目標は間違いなかった。

3.帝人事件の判決理由
昭和12年(1937)10月5日、公判開始から約2年4か月、265回の公判をもって結審し、同年12月16日、全員無罪判決言い渡しで結末がついた。この事件は現職大臣を含み大蔵官僚、財界有力者など16人が起訴され、その捜査の段階で、その余波を受けて斉藤実内閣が総辞職するに至った裁判だった。
 起訴内容は、帝人会社は帝人株の将来の値上がり利益を喪失させた損害を与えたとしての背任罪、またそのような取引は政界その他実力者の圧力によるもので取引完了後の直接、買受あっせんした人たちがそれらを政界その他の人に謝礼金を贈与したとして、贈収賄の罪というものだった。
 無罪判決は、もともと台銀はその特銀たる性質上、多量な事業会社株を長く保有すべきではないばかりでなく、また一方、将来の株価の的確な予測の困難なこと、当時の台湾銀当局者の誠実と懸命な努力が判然としたこと、この肩代わりによって整理が著しく進展し、決して不当なものではなかったことが認められて背任罪は成立せず、また贈収賄の事実もその証拠がないと言うよりも、むしろ検事主張のような事実の存在しないことが明瞭となったから、だった。
 この長期にわたり、また複雑な裁判への関与によって、私はさまざまな体験を身につけたけれど、わけても藤井五一郎裁判長の謙虚さ、公平さ、またその温情と剛直さを身をもって学ぶことが出来たのだった。

石田 和外(いしだ かずと)

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