掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1978/03/01〜1978/03/31 |
出身地 | 秋田県 |
生年月日 | 1905/07/02 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大高等 |
入社 | 国民時論社 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 海軍従軍期間(マニラ、シンガポール、 ペナン、サイゴン、バンドン)、金環蝕、48歳の抵抗 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 陸軍報道官・三宅壮一、井伏鱒二、山岡荘八、中島健藏 |
備考 | 海軍派遣報道員(6月間) |
1905年(明治38年)7月2日 – 1985年(昭和60年)1月31日)は秋田県生まれ。小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名の幾つかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。
この「私の履歴書」では昭和16年(1941)12月24日から17年6月22日までの海軍派遣報道員として、詳細な日記メモを書いており、文芸や個人に対する記述は全くなかった。
1.初日、「私の履歴書」書き出し
題名は「私の履歴書」であるが、70余年の履歴は少々のことでは書き切れないし、断片的な物は今までに何度も書いてきた。だから今回は生涯の中の一部分の履歴書として、「徴用を受けて従軍した期間」だけの、未発表の履歴を書いて見たいと思う。
昭和16年(1941)12月24日、午前9時海軍省に出頭。私は海軍の徴用を受けて報道班に所属していた。開戦から半月、ハワイ急襲があり、プリンス・オブ・ウエルズの撃沈があり、いまフィリピンとマレーと香港とで戦争は進行している。これまでのところでは大変に好調のようである。
2.デング熱に罹る(昭和17年3月30日)
「デング熱に罹ると家が恋しくなるでしょう」と大石君が言った。
本当の胴震いというものを経験した。肺の辺りから震え始めて次第に肋骨に伝わり筋肉に伝わる。何とも抵抗できない震え方だ。そのたびに皮膚がじんじんと痛む。熱そのものは大したことないが、熱に抵抗するために全身が神経過敏になって、その方が辛い。熱で歯が浮いているのか、パンの耳がどうしても噛めなかった。寝ている事の苦痛に耐えず起き上がると、頭の芯がふわりと宙に浮いて足元が定まらない。
夜になると軍医長が来てくれた。「おめでとう、これであなたも一人前だ。デング熱では死なないから」と。
3.天長節(昭和17年4月29日)
この日、午前10時朝日新聞の車でジャワ市庁前の広場へ行く。群衆約2千人。柵を造った中で敵国オランダ国旗を山のように集めて焼いていた。旗は毛織物が多いので、いぶるばかりで燃えない。だらしない行事だ。天長節のやり方ならもっとやり方があるだろう。これでは敵国の国旗を凌辱しているだけではないのか。午後はジョクジャカルタの舞踊家たちによる古典的な踊りの会があった。日本軍の命令によって、王宮の中の門外不出の芸能が日本人だけに公開されたのである。これは立派なものだった。ガメランというジャワの交響樂の伴奏でえんえん3時間。驚くほど巧みな俳優たちであった。
4.帰国本土に(昭和17年6月22日)
日本の陸地を半年ぶりで眺めた。瀬戸内上空で、戦艦武蔵、大和かと思われる巨大な軍艦が碇泊しているのを見た。大阪午後3時発、鈴鹿峠からまた雲一杯になり、駿河湾を低く越えたが、箱根は密雲に閉ざされて全く山の姿が見えない。機は山肌を這うようにして谷を昇っていくが、あきらめて引き返し、また別の谷を昇ってみるが、これもダメで旋回してまた元に戻る。杉の梢が翼に触れるかと思われて怖い。機長はあきらめて沼津へ引き返し、ずっと北へまわって秩父の方の低いところを辛うじてすり抜けた。翼の下に関東平野が見えて、みんなホッとした。羽田着5時40分。東京は小雨であった。出迎えは誰もいない。誰も知らないのだ。
石川 達三 (いしかわ たつぞう) | |
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1954年 | |
誕生 | 1905年7月2日 日本・秋田県平鹿郡横手町 (現・横手市) |
死没 | 1985年1月31日(79歳没) 日本・東京都目黒区中目黒 東京共済病院 |
墓地 | 神奈川県平塚市那由侘の里 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 早稲田大学英文科中退 |
活動期間 | 1931年 - 1985年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 | 『蒼氓』(1935年) 『生きてゐる兵隊』(1938年) 『風にそよぐ葦』(1950年 - 1951年) 『四十八歳の抵抗』(1956年) 『人間の壁』(1959年) 『青春の蹉跌』(1968年) |
主な受賞歴 | 芥川龍之介賞(1935年) 文藝春秋読者賞(1964年) 菊池寛賞(1969年) |
デビュー作 | 『最近南米往来記』(1931年) |
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石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月31日)は、日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名のいくつかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴[1]。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。日本芸術院会員。