掲載時肩書 | 日本製鋼所会長 |
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掲載期間 | 1961/02/24〜1961/03/11 |
出身地 | 東京都銀座 |
生年月日 | 1886/02/17 |
掲載回数 | 16 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 一中 |
入社 | 日本製鋼所(北炭子会社) |
配偶者 | 松本楓湖画家娘 |
主な仕事 | 渡英(会計勉強1年)、海軍中心→陸軍受注、満州、昭和飛行機、日本技術協力株式会社、日本兵器工業会 |
恩師・恩人 | 井上角五郎社長(息子・五郎・中電) |
人脈 | 石坂泰三(1年先輩),足立正、向井忠晴、菅礼之助、磯村豊太郎、西尾末広(組合)、栗林五朗 |
備考 | 日本の兵器産業歴史 |
1886年(明治19年)2月17日 – 1962年(昭和37年)7月15日)は東京生まれ。実業家。軍需メーカーであった日本製鋼所社長や日本兵器工業会会長などを務めていたことから、戦後、1947年(昭和22年)に公職追放されるが、1951年(昭和26年)に解除され日本製鋼所に復帰した。1954年(昭和29年)には、日本製鋼所室蘭製作所で勃発した日鋼室蘭争議の収拾に貢献。その手腕により1955年(昭和30年)社長復帰し、1959年(昭和34年)からは会長、後に相談役となった。また財界では、旧日経連及び経団連の理事を務めた。
1.日本製鋼所の発足と初任給格差
明治41年(1908)7月、私は一橋を卒業して日本製鋼所の室蘭本社に入ったが、社長は井上角五郎氏であった。製鉄が本業のこの新会社は当時の日露戦争に大勝した国内背景から、事業内容が製鋼と兵器に書き換えられた。陸軍はもっぱらフランスとドイツに依存し、海軍はイギリス一辺倒であった。だが、悲しいかな当時の日本には、兵器について専門に知識を持ってる人が少なかった。そこで井上さんは、折から海軍中将で呉海軍鎮守府司令官の職にあった山内万寿治氏に相談したが、山内中将は二つ返事で賛成し、勅裁というか、特別に陛下のお許しが出て現職のまま日本製鋼所の顧問になった。これは異例中の異例。
その時の私の初任給は30円であった。帝大の法学士と一橋が30円、帝大の工学士が40円、蔵前が35円、早稲田が23円、慶応が24円といった具合だった。これからおしても、いかに官学と私学の差別がひどかったかも分かる。
2.終戦末期の苦労
1945年の7月、室蘭工場は米海軍の艦砲射撃を受けた。3万トンから4万トンのミズーリ級の戦艦がやって来て、40センチくらいの弾丸を派手に撃ち込んだ。被害の大きかったのは日本製鋼所と富士製鉄だったが、うちの場合は工場よりも社宅の方がひどくやられ、この艦砲射撃で100名ばかりの犠牲者を出した。米艦隊はその足で釜石を襲ったが、それが終戦のたったひと月前だっただけに、この奇襲で亡くなった人たちは全く気の毒であった。
戦争中の一番の苦労は、労務問題だったろう。勤労動員令があり、あの頃は徴候用といってみんな軍からまわされ、引っ張られてくるため、質が悪く逃げていく者もいる。それでも、私の会社には幸いにも捕虜が回されてこなかったので助かった。捕虜を割り当てられた会社は、みんなあとでひどい目にあっている。横浜では朝鮮人もかなり使ったが、捕虜ではなかったので問題は起こらなかった。だが、考えてみると、どだい働く意思のない一般の人たちを、権力で引っ張って来て働けと言っても無理な話だ。
3.軍事産業の終戦後の苦労
大部分の軍需会社はそうだったが、特に日本製鋼所の終戦によって受けた打撃は大きかった。何しろ180度の転換である。ところが転換しようにも会社には金がない。品物は納入済みだが、代金が入ってこないから当然だ。しかも現実は、何としても食っていかなければならぬ必要に迫られているのだ。それにしても社員5千百人余、工員3万3千人余の口をかなっていくというのは、当時とてもできない相談だった。
そこで全従業員を一応整理し、その上で新規の事業に必要な人員を集めるという方針をとり、三井銀行から2千5百万円の金を借りて一斉に整理したがやむを得なかったとはいえ、当時の胸中は実に辛かった。こうして昭和20年(1945)10月に4万人近い人たちに辞めてもらって、同年12月の再スタートに当たり、改めて7千4百余名の再採用を決定した。再出発といっても、これといった仕事はない。そのころはどこの会社でも家庭用品などをつくって何とかやっていたものだが、日本製鋼所も例外ではなかった。室蘭工場では札幌に駐在してきた米軍の使うガスストーブまでつくり、広島工場でも高圧ガマなどをつくったのだった。