掲載時肩書 | 東芝社長・経団連会長 |
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掲載期間 | 1957/01/01〜1957/01/11 |
出身地 | 東京都牛込 |
生年月日 | 1886/06/03 |
掲載回数 | 11 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一中.一高 |
入社 | 逓信省 |
配偶者 | 金子堅太郎伯秘書官娘 |
主な仕事 | 第一生命、欧米見聞、東芝、経団連会長、日本工業倶楽部理事長、万博会長 |
恩師・恩人 | 岡野敬次郎教授、矢野恒太 |
人脈 | 河田順、下村海南、落合太郎、高杉晋一,重光葵、正力松太郎、五島慶太、河合良成、芦田均 |
備考 | 財界に対する注文 |
1886年(明治19年)6月3日 – 1975年(昭和50年)3月6日)は東京生まれ。財界人、経営者。逓信省を退官、第一生命保険に入社し、のち社長。三井銀行(現・三井住友銀行)頭取の佐藤喜一郎と東京芝浦電気(現・東芝)社長の津守豊治の依頼で、1948年(昭和23年)東京芝浦電気取締役、翌年社長となる。東芝は当時、大労働争議のため労使が激突し倒産の危機にあった。あえて火中の栗を拾った形となった石坂は、真正面から組合と交渉し、6,500人を人員整理し、東芝再建に成功する。1955年日本生産性本部初代会長。官僚出身の割に官僚の民間経済への介入を嫌ったが、東芝再建に官や他勢力の力を借りずに成し遂げたことで、1956年(昭和31年)に石川一郎経済団体連合会(経団連)会長辞任を受けて、後任の二代目経団連会長、産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)に就任。経団連会長の異名 「財界総理」は石坂泰三を嚆矢とする。
1.第一生命保険に入った背景
明治44年(1911)逓信省に入った。その時の直属上司は下村海南貯金局長である。為替貯金制度を日本に広めたが、簡易保険も非常に熱心に提唱された。ところが下村さんは、簡易保険を国営で、しかも専売的にやるという主張なので、民間保険業界はこぞって強く反対した。なかでも一番激しく食って掛かったのが、当時第一生命の社長矢野恒太氏であった。
矢野氏も下村氏も、いずれ劣らぬ口八丁、手八丁同士だから、二人はことごとく対立した。その時の法制局長官は、私を逓信省に紹介した東大の岡野敬次郎先生で、先生の前で二人は官営是非論を口からツバキを飛ばしながら戦わした。そうしているうちに、矢野さんが岡野先生に「おれのところで人がいるのだが、誰かいないか」となった。私の想像では、岡野先生が手帳をパラパラめぐり、私の名前が目に止まったと思える。それで「かれこれ5年前に逓信省に入れた石坂泰三という男がいるが、どうかね」となったようだ。
藪から棒に、役人を辞めて第一生命へ入れと勧められても、私は急に返事をするわけにはいかなかった。私の妻は生命保険なんか嫌だという。「私はあなたが国家の官吏だからお嫁に来たのです。よその人から、お宅のご主人はどこにお勤めですかと聞かれて、生命保険だなんていうのは、きまりが悪い。ふるふる嫌です」と猛烈に反対された。そこで私は、「保険の学位をとる」と約束して妻をようやく納得させたのだった。
2.恩師・矢野恒太氏の経歴と人柄
私の入社当時(大正4年・1915)は生保界で12、13番目の会社であった第一生命も、32年後に辞めた時(昭和21年・1946)は日本生命に次いで2番目になっていた。矢野さんや社員の努力に負うところ大だ。
矢野さんの家は岡山の何十代もの医者の家で、彼も岡山医学校を出て初めから保険医として日本生命の後、安田生命に移ったが、やがてここも辞めて外国に行き、相互組織というものを研究して帰ったなかなかの才人である。学問もよくでき、保険に必要な数学なども独学ながら微分積分にも通じていた。
矢野さんはドイツのゴータ―にある優良相互会社に行き、そこで勉強して帰国した。そして日本でも相互会社を建てようと計画し、保険業法という法律の草案を作った。それを岡野敬次郎先生が中心になり、矢野さんは助手のような形で力を尽くした。その結果、保険法ができて、保険が初めて政府の監督事業になった。そうして農商務省に保険課ができ、矢野さんは初代の保険課長になって1年くらいいたわけである。
矢野さんは仕事の大綱だけを握り、私には細かいことは一切口を出されなかった。また、金銭欲もないことも、ちょっと珍しいくらいな人だった。早い話が自分の財産についても、ちっとも関心がないのである。外でばかり活躍しているので、私が洋行から帰って来てからは、矢野さんは個人の実印も私に預けたきりであった。月給でも何でも私が受け取って森村銀行に預けていた。奥さんさえ金のことは一向にご存じないという有様だった。金が入用なときは「出して来てくれんか」と、一言いうだけだ。この実印は、私が辞めるちょっと前に、矢野さんの息子の現社長一郎君が来るまで預かっていたような次第である。
3.東芝時代
私は第一生命を出て、2年浪人をしてから昭和23年(1948)に東芝に来た。はじめは社長になる約束できたわけではない。会長になるということできたわけである。社長は新開広作という人がやっていたが、定款には会長制がないので平(ひら)できていた。しかしこれでは、どうしてもいけない。特別経理会社なので、3年も4年も総会がないが、このままでは事情が許さない。このままの定款でやるなら社長よりほかないというわけで、昭和24年の4月だったと思うが、互選の結果、社長になった。昭和32年(1957)3月で8年の社長になるわけだが、はじめは、「めくら蛇におじず」でやってきたものである。
私は東芝にくるに当たって、自分の腹心は一人も連れてこなかった。単身乗り込んだわけである。これには理由がある。一人ならば出処進退が自由にできるが、人を連れていった場合、その人をやめさせて自分が残るわけにいかないからだ。
ところで、社長になって当面したのはあの世間で騒がれた労働問題である。昭和24年の6月に私は6500人ぐらいのクビを切った。当時の労組はお話にならないほど荒れていたもので、重役がスリッパでホッペをひっぱたかれたり、日本電工の高橋社長などは頭に火のついた巻きたばこを押し付けられて、火ぶくれをこしらえたほど無茶なものだった。現在の東芝の労組は、赤旗も振らなければ、ハチ巻きもしない。隔世の感がある。
第一生命時代、私はかなりいい会社の取締役をやっていたが、東芝に入る時、すっかりそれらを辞めてしまった。おもな会社を挙げると、第日本麦酒、王子製紙、それに東芝などだが、その時分の東芝は大した会社で、日本のナンバーワンだった。