石坂公成 いしざか きみしげ

医療

掲載時肩書免疫学者
掲載期間2005/03/01〜2005/03/31
出身地東京都
生年月日1925/12/03
掲載回数30 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他成蹊高
入社国立予防研
配偶者女子医 top
主な仕事免疫学、CA工科大、ジョンスホプキン大、IgE発見、35歳で教授、パサナ賞、妻教授(パーキンソン)、ラホイヤ研究所
恩師・恩人中村敬三教授、キャンベル教授
人脈石坂泰三(叔父)、三浦朱門(中)、岸本忠三、山村雄一、多田富雄
備考妻と共同研究で受賞
論評

1925年(大正14年)12月3日 – 2018年7月6日)は東京生まれ。免疫学者。医学博士。国立予防衛生研究所免疫血清室長、小児喘息研究所(デンバー)免疫部長、ジョンズ・ホプキンズ大学医学部教授(京都大学医学部教授兼任)、 ラホイヤ・アレルギー免疫研究所所長、カリフォルニア大学内科教授、米国免疫学会会長等歴任。 1983年、米国科学アカデミー(NAS)会員。1966年2月20日、新しいアレルギー物質(IgE)の発見を共同研究者である妻の石坂照子と発表する。「引退したら山形に帰りたい」という照子の願いをかなえるため、自らの引退の後、1996年に山形市に同道したが、照子は1998年に発病して山形大学病院に入院。長期入院する妻の看病を続けた。これらの縁から、山形大学客員・特別招聘教授、山形県教育委員会委員長などに就任している。

1.アレルギー学会で大先生に反論
私の国立予防衛生研究所(予研)での仕事は順調に進んだ。入所して1年ほどたったころ、私はジフテリーの毒素抗毒素が生体内で反応することでアナフラキシー(即時型アレルギー)性反応を起こしうることを示し、さらにこのシステムを利用して、毒素(抗原)と抗毒素(抗体)を試験管内で混合すると、数秒以内で結合が完了することを証明した。こんな結論は現在では常識なのだが、当時は抗原と抗体の反応はゆっくりと進むと考えられていたから学会でも議論の的になった。
 アレルギー学会のメインスピーカーの一人は京都大学の前川孫二郎教授だった。前川教授の説は「免疫とアレルギーの違いは抗原の性質によって決まる」ということであった。この説が正しければ免疫の本体である抗毒素が毒素と反応してアレルギーを起こしうるという私の結論は間違いとなるが、私の結論が正しければ前川説は誤りということになる。
 前川説が一般化されては困るので私は質問に立った。私が証拠を挙げて反論するものだから次第に前川教授は顔面蒼白になり声も震えてきた。当時の日本では、若い研究者がオーソリティーに反対することはなかったから私は”生意気な奴“だったに違いない。学問上でも大先生に反対するのは失礼だったから。

2.IgEを発見1966年
アレルギーを起こすヒトの抗体(レアギン)がどんなタンパク質かという疑問は、1950年代から多くの免疫化学者によって研究された課題だった。この問題の解決が難しかった最大の理由は、レアギンの検出にはヒトの皮膚を使う以外に方法がなかったことである。現在ではエイズの心配があるから他人の血清を注射することは禁じられているが、当時でも花粉症患者の血清注射で流行性肝炎を起こした例があった。
 私は、レアギンの研究をするためには自分たちの皮膚を使う以外に方法がないと思った。皮内に注射されたレアギンは長い間局所にとどまるとされていたが、試してみると、2週間もたてば元に戻るようである。だから順序良く腕や背中を使えば、毎週実験できる。
 そこで、家内照子にサンプルを背中に注射してもらい、翌日そこへ抗原を注射して反応の大きさを測ってもらった。しかし、実験が佳境に入ったら私の背中だけでは足りなくなって、照子の背中も使うようになった。彼女は「これを『さしつ、さされつ』と言うのね」と冗談を口にした。
 ところが、次に私はレアギンに対する抗体をウサギで作ることになった。ウサギの血清の中に問題の抗体があるかどうかを調べるには、患者血清にウサギの抗体を加え混合物を薄めてヒトの皮膚に注射し、レアギンがあるかどうかを皮膚反応でみるしかない。そうなると、わずかだがウサギの血清タンパクをヒトに注射してしまうことになる。こんなことを他人の背中でするわけにはいかないので、もっぱら私の背中を使った。
 我々二人は1966年2月に、初めて「レアギンがIgEに属する抗体である」ことを米国アレルギー学会のシンポジウムで発表した。IgEとだけ反応する抗体をもっていたのは世界中で我々だけだったから、IgEに属する骨髄腫タンパクもこの抗体を使って決定された。おそらく、こんなに研究の役に立った抗体はなかったと思う。

3.夫婦でパサナ賞を
1970年の夏に、我々はデンバーからボルチモアに移った。ジョンズホプキンス大学は関連病院に免疫アレルギーセンターの研究棟を増設し、我々を引き抜きで招いたのだった。私を教授、照子を準教授として招きたいという。肩書には拘泥しない彼女であったが、学生時代から持っていた夢を実現するには肩書もあった方がいいと私は考えた。準教授は独立した研究者だから、照子は自分の研究室とオフィスを持った。
 ジョンズホプキンス大学に移る時、私はIgEとアレルゲンが反応するとなぜアレルギーが起きるのかという問題を照子に任せることにした。この研究には照子が組み立てた実験系を使うから、研究は彼女が主役になって進めるべきだと考えたのである。私の方はIgE抗体がつくられる仕組みに挑戦することにした。
 免疫アレルギーセンターの我々の研究部の下の階は、臨床アレルギー部の研究室であった。アレルギーの免疫療法については彼らと共同研究をしたし、照子の実験系は彼らの研究にも利用できた。センターは後に「アレルギーのメッカ」と呼ばれるようになったから、ジョンズホプキンス大学としては我々を引き抜いた意味が十分あったと思う。
 私と照子は一緒にアレルギーが起きる機序の解明に取り組んできた。その中ではIgEの発見もあった。そうした仕事に対して1971年秋に「あなた方夫妻にパサナ賞を贈ることになった」という通知を受けた。この賞は民間の財団が医科学分野の研究者に毎年1件贈るもので、受賞者の中には後にノーベル賞を受けた人が何人かいる権威あるものであった。

追悼

氏は’18年7月6日に92歳で亡くなった。この「履歴書」に登場したのは2005年3月で79歳のときでした。叔父の石坂泰三(元経団連会長)は父親(長男:陸軍大佐)の弟に当たる。

氏は、1948年東京大医学部を卒業後、カリフォルニア工科大学へ留学。66年花粉症やぜんそくなどのアレルギーを引き起こすたんぱく質IgE抗体を発見し、治療法開発に道を開いた。この共同研究者だった照子夫人ともに、72年にパサノ賞、73年にガードナー国際賞を受賞し、ノーベル賞候補と言われた。氏はこの「履歴書」には「我々は」という言葉で、共同研究者だった妻・照子夫人の貢献を書いている。彼女は東京女子医大をトップ卒業し、同じアレルギー研究をしていた石坂氏と結婚する。彼女は夫との共同研究成果を評価され、ジョンズホプキンス大学二人目の女性教授にもなった才媛だった。 しかし、95年には彼女が難病にかかり病状も悪化したため、96年に帰国し、彼女の故郷・山形で療養生活をおくっているが、氏は毎日彼女の病室を見まい、研究生活と教育指導も続けられていた。

印象に残った言葉は、最近の生命科学では何事も「人生は遺伝子で決まる」ように語られることが多い。「しかし、私はそうは思わない。はっきりしていることは、人間がどこへ行って何をするかということは遺伝子ではなく偶然によって決められるということである。「我々が」歩んできた道はまさしくその通りなのである」。そして研究者になることも、人との出会いも、IgE抗体も、「いくつかの偶然の積み重ねがそれを可能にした。人生は不思議なものである」と。

[ 前のページに戻る ]