町村敬貴 まちむら ひろたか

食品

掲載時肩書北海道町村牧場主
掲載期間1964/03/01〜1964/03/18
出身地北海道札幌
生年月日1882/12/20
掲載回数18 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
北海道大学
学歴その他京華中学
入社ラスト兄弟牧場
配偶者母の遠縁娘
主な仕事ウィスコンシン州農大、10年後北海道樽川牧場、江別牧場、北海道興農公社、義宮様ご来牧場、参議院議員
恩師・恩人宇都宮 仙太郎
人脈町村金弥(父)金五(弟15下:参議員・知事)、塩野谷平蔵、川岸駒太郎、石黒忠篤、
備考日本の酪農史
論評

1882年12月 – 1969年8月12日)は北海道生まれ。政治家、実業家。貴族院勅選議員、参議院議員。
町村金弥は父。政治家町村信孝は甥。町村金五(元北海道知事、自治大臣)は実弟。敬貴がアメリカに渡った翌年の明治40年春、宇都宮仙太郎がアメリカに牛を買いに来て、父金弥からの依頼で、北海道と自然風物がよく似ているウィスコンシン州・ウエストアリスのラスト牧場で牧夫として働けるよう手配をした。ウィスコンシン州 州立農科大学に学ぶ。アメリカへ渡って4年目、敬貴は札幌農学校出身ということもあり、英語さえわかればアメリカの大学へ入学できうるということになった。大学のある州都マディソンは当時人口2万程度、酪農の中心地であっただけに、大学も試験研究所も一流中の一流の水準を持っていた。

1.酪農開拓者・宇都宮仙太郎氏
宇都宮さんは父金弥と並んで、北海道酪農の開拓者と言われる人物である。宇都宮さんは慶應義塾に学び、福沢先生のすすめで、20歳のときに北海道に渡った。ここで父の金弥が場長だった真駒内牧牛場に勤めるようになった。宇都宮さんは非常に勤勉な性格で、明治20年(1887)、22歳で渡米し、無一文になって放浪者のような生活を続けながら、イリノイ州の牧場に辿り着き、そこで牧夫としての生活を始められた。
 生活は戦争に等しく、激しい労働が待っていた。しかしよくそれに耐えた。朝4時から夜8時までの労働。イリノイの冬は寒い。搾乳をしていると指がかじかむ。宇都宮さんは指を牛の股に入れ温めて、痛みを和らげてまた搾乳を続けたという。不屈の精神で押し通し、明治21年までこの牧場で過ごした。その後、学問をしたい気持ちを抑えがたく、ウィスコンシン州の試験場で学び、また同地の大学にも通った。そして米国の酪農のあらかたを習得して明治23年に帰国した。

2.ラスト兄弟牧場で学ぶ
私が札幌農学校で基礎学問をした後に、渡米して丸1年、宇都宮さんが日本から牛を買いに来て、再会した。氏がウィスコンシン州のラスト兄弟牧場を紹介してくれたことは実に幸せだった。なぜならこの牧場は私の願いのすべてをかなえてくれ、今日の私を作ってくれたのである。牧場にはホルスタインが60頭ばかりいた。私は喜んだ。というのは日本にいたころから将来の乳牛はホルスタインが本命と信じていたからだ。ところが、その頃の日本の牛はエアシャー種が主流だった。ホルスタインの方が体格も立派で乳量も多い。だが日本ではまだ数が少なく、学びたくても学べなかった。
 しかし、生活は苦しかった。牧場での日課は、朝4時半に起きてまず乳を搾る。それから牛の世話をする。夏なら牛を戸外に連れ出す。そのうちに朝食になる。7時頃だが、30分程度で済ませる。今度は厩に行って馬の手入れをする。次に馬2頭を引き出して畑仕事を始める。牧場といっても畑作もしていた。日中はびっしり野良仕事。夕方帰ると再び牛の面倒を見る。夕食をとった後、再び乳しぼりに出かける。やっと9時近くになって全部の仕事が終わる。自分の時間などはない。泥のように眠るだけだ。この他、マキ割、皿洗い、何でもやってのけた。

3.酪農の技術とは
ウィスコンシン州にはヨーロッパの酪農、畜産の進んだ諸国、ドイツ、オランダ、スウェーデン、デンマークなどからの移民が多く、これらの移民は本国から進んだ技術を持ってきた。技術とはつまり草作りで、良い草を作ることを“お家芸”として米国に移住してきたのである。ラスト家はドイツ系だが、母国の“お家芸”を堅く守って良い草を作っていたのである。牛が好む良い草は百年も二百年も前から努力した結果なのである。
 そして良い草は良い土壌にできる。これが酪農の本質で、いってみれば簡単な原理だが、当時のわが国ではここまで突き詰めて考えてはいなかったと思う。私が米国でつかんだのはこの原理で、それが信念になってきた。私は自信がついたので、大正5年(1916)滞米生活10年の米国に別れを告げた。

町村 敬貴(まちむら ひろたか、1882年12月 - 1969年8月12日)は、日本政治家実業家貴族院勅選議員参議院議員正四位勲二等

町村金弥は父。政治家町村信孝は甥。町村金五(元北海道知事自治大臣)は実弟。

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