掲載時肩書 | 作家 |
---|---|
掲載期間 | 1997/05/01〜1997/05/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1928/03/27 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 大阪樟蔭女子大学 |
学歴その他 | |
入社 | 金物問屋 |
配偶者 | 38で42歳の医師と |
主な仕事 | 「文藝首都」、古事記、日本書紀、芥川賞(感傷旅行)、 |
恩師 | 藤沢桓夫 |
人脈 | 保高徳蔵、司馬遼太郎夫人(後輩)、長沖一、藤本義一 |
備考 | 父:写真館 |
氏は’19年6月6日91歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は1997年5月の69歳のときであった。女流作家でこの「履歴書」に登場は、平林たい子、円地文子、瀬戸内寂聴、佐藤愛子に次いで5番目であった。
巧みな大阪弁を駆使して男女の機微を描いた小説家として知られた。最初はラジオドラマの脚本も手掛けたが、次第に大衆小説へと軸足を移し、より身近な設定における恋愛小説や社会風刺的なエッセイなどを精力的に執筆した。また古典文学の流れから歴史小説、川柳にも活躍の場を広げ、同じ大阪出身の歴史小説家である司馬遼太郎とも親睦を結んでいる他、自身も江戸時代の俳諧師・小林一茶の生涯を描いた『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞を受賞している。
氏は、小林一三氏が宝塚を作った偉大な人物として、大阪人が熱い近親感をもっており、「イチゾはん」となれなれしく呼び、その業績を我がごとのように自慢し、「天神さん」「太閤はん」とおなじく絶対であったと書いている。
氏の昭和32,33年ごろは才女時代と言われた。挽歌の原田康子、有吉佐和子、山崎豊子、瀬戸内晴美らであった。
私生活では長年独身であったが、文学仲間の川野彰子への追悼文を寄せたことが縁で、その夫で神戸で医師をしていた川野純夫と知り合い、1966年に後妻として川野と結婚し、2002年に死別するまで36年間連れ添った。 この川野氏が「カモカのおっちゃん」シリーズのモデルとなっていた。この夫と毎晩のように晩酌を楽しみ、一緒に阿波踊りなどにも出かけた。趣味も多彩で、大の宝塚歌劇ファンでもあり、人生の楽しみ方の達人でもあった。
たなべ せいこ 田辺 聖子 | |
---|---|
![]() 新潮社『旅』第40巻第7号(1966)より | |
誕生 | 田邉 聖子 1928年3月27日 ![]() |
死没 | 2019年6月6日(91歳没)![]() |
職業 | 小説家 随筆家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | ![]() |
教育 | 得業士 |
最終学歴 | 旧制樟蔭女子専門学校 |
活動期間 | 1956年 - 2018年 |
ジャンル | 恋愛小説 歴史小説 随筆 評伝 |
代表作 | 『感傷旅行』(1964年) 『言い寄る』(1974年) 『文車日記――私の古典散歩』(エッセイ集、1974年) 『新源氏物語』(1978-79年) 『姥ざかり』(1981年) 『ジョゼと虎と魚たち』(1984年) 『ひねくれ一茶』(1993年) 『道頓堀の雨に別れて以来なり――川柳作家・岸本水府とその時代』(評伝、1998年) |
主な受賞歴 | 大阪市民文芸賞(1956年) 芥川龍之介賞(1964年) 女流文学賞(1987年) 吉川英治文学賞(1993年) 菊池寛賞(1994年) 紫綬褒章(1995年) 泉鏡花文学賞(1998年) 読売文学賞(1999年) 蓮如賞(2003年) 朝日賞(2007年) 文化勲章(2008年) |
デビュー作 | 『花狩』(1958年) |
配偶者 | 川野純夫(1966年 - 2002年、死別) |
田辺 聖子(たなべ せいこ、本名:田邉 聖子[1]、1928年3月27日 - 2019年6月6日[2])は、日本の小説家、随筆家。
大阪府大阪市生まれ。淀之水高等女学校を経て樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)国文科卒。恋愛小説などを中心に活動し、第50回芥川龍之介賞など数多くの文学賞を授与されている。文化勲章受章者。