田崎勇三 たざき ゆうぞう

医療

掲載時肩書癌研付属病院長
掲載期間1958/03/16〜1958/04/04
出身地長崎県
生年月日1898/07/05
掲載回数20 回
執筆時年齢60 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社助手
配偶者記載なし
主な仕事一高の寮友、一高名物、東大医学部、解剖・病理(長与教授)、臨床(稲田教授)、 癌研附属病院
恩師長与又郎、稲田龍吉教授
人脈一高の人物評(古垣鉄郎、松本重治、内村裕之、木内信胤、松本俊一、川端康成、笹山忠夫)、大仏次郎、徳川夢声
備考杉山金太郎10万寄付(癌研)
論評

1898-1963 長崎県生まれ。昭和時代の医師。昭和8年癌(がん)研究会康楽病院(のちの癌研付属病院)の内科部長,32年院長となる。「がんの早期発見・早期治療」をかかげて検診,治療,啓発活動をおこなう。日本癌学会会長。「私の履歴書」には、一高の名物行事、その寮友や東大の学友の有名人を100名以上にわたり紹介してくれていた。

1.一高名物の紹介(寮雨、コンパ、ろう勉、賄征伐、ストームなど)
(1)寮雨:便所まで行く時間を節約して勉強するため、寝室や廊下から放尿するのである。水洗便所ができる前の和式便所独特の、あの鼻をつくアンモニア臭をかがなくてすむ用が足せるので、快感を味わえた。
(2)コンパ:今のパーティのようなもので、同室のものが、焼き芋、どら焼き、饅頭、南京豆、塩せんべい、サイダーなどを買って来て、酒のない小宴を開くのである。(寮では表向き酒は禁制であった)。
(3)ろう勉:ロウソクをつけて勉強する意味。寮は10時に消灯だったから、それ以後はロウソクをつけた。学期末試験前になると、あちこちの寮の自習室や寝室から、薄明るいロウソクの灯がもれて、幻想的だった。
(4)ストーム:全くひどい嵐だった。せっかく熟睡しているのを寮歌やデカンショを絶叫しながらなだれ込んでくる群衆に叩き起こされるのである。ボート部が優勝した時などはひどかった。
(5)賄征伐:当時賄いは学校側からの請負制度だった。食事や漬物にミミズやハエの死骸を見つけると、寮生は絶好のチャンスとみなし、「これを見ろ」「このやろう」と言いながら、みんなで食卓をひっくり返すので、痛快なものであった。茶わんがコンクリートに当たって砕け散る音がすさまじかった。いたずら心だった。

2.解剖実習(当初はいたたまれなかった)
フォルマリンとアルコールの入っている大きな湯船のようなタンクの中に、こわばった死体がウヨウヨ泳いでいる。男も女もごちゃごちゃに、全裸のまま、上を向いたもの、下を向いたもの、絡み合ったものなど、私はなるだけ、それは動物の死体なのだと考えようとした。解剖室の小使いが事務的に死体を引き揚げて、その一つ一つを幾つかの解剖台に乗せる。頭、両上肢、両下肢を二人ずつ胸部と腹部を一人ずつ計8人の学生が、芋虫についたアリのように一つの死体の解剖にかかる。手や足はまだよいが、頭蓋骨をのこぎりで引いたり、ノミやツチで割ったりして、大脳や小脳を取り出し、胸や腹に肉切包丁のような大きなメスを縦に入れて、心臓や胃腸、肝臓、腎臓などを取り出して、解剖書と比較しながらいろいろ調べてゆくことは私には、耐えられないことだった。
 解剖のあった日は、死体の臭気が手や爪の間にへばりついていて、いくら洗ってもその嫌な臭いが抜けない。下宿に帰って晩飯のおかずに肉の焼いたのが出るとゾッとした。臭いが死体のそれに似ているのだ。

3.朝香宮妃殿下の採血
稲田教授の代理で、腎臓炎でご病臥中の妃殿下(明治大帝のご息女)の血液30ccほどを採血に行ったことがある。妃殿下のご準備が整ったので、私は大学で消毒のうえ持参した白衣と着かえ、手を洗ってから、大きな病室に通された。そこには事務官や看護婦や老女らしきものなど数人いたが、私には何人いるのか、すっかりアガッていたので、よくわからなかった。顔を見ることなどとてもできなかった。ベッドに近づいて最敬礼をしてから採血にとりかかったが、ベッドがあまりに大きすぎて、しかも妃殿下はその中央に横たわっていられるので、採血はすこぶる困難を極めた。
 だが南無八幡と刺し込んだ注射針は最初の一発が見事に命中して、検査のために十分な血液採取に成功した。私はホッと安心したのである。コルベンに入れたその血液を大事に抱き、白布に包んだ宮家からのお土産の五色ようかんを頂戴し、宮家の自動車に乗って、凱旋将軍のごとく意気揚々と稲田内科に到着した。

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