田代茂樹 たしろ しげき

繊維

掲載時肩書東レ名誉会長
掲載期間1972/06/30〜1972/07/27
出身地福岡県北九州
生年月日1890/12/05
掲載回数28 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
九州工業大学
学歴その他明治専門学校
入社三井物産
配偶者浅草娘
主な仕事門司支店採用、紐育、療養2年半、倫敦、東洋レーヨン、デュポンからナイロン導入、ICIからテトロン、日本化学繊維協会長、東レ財団
恩師・恩人松本健次郎、金子堅次郎
人脈安川第五郎、中島知久平、石田礼助、大屋晋三、西尾末広、辛島浅彦、津島寿一、菊池寛
備考父:村長、繊維3種(ナイロン、テトロン、トレロン)生産
論評

1890年(明治23年)12月5日 – 1981年(昭和56年)8月8日)は福岡県生まれ。東洋レーヨン元社長、元会長、元名誉会長、日本化学繊維協会元会長、日本腎臓財団初代会長。1960年に(財)東洋レーヨン科学振興会を設立した。

1.東洋レーヨンに転出して禁酒禁煙の解禁
昭和11年(1936)の秋、三井物産本店の常務取締役石田礼助さんから呼び出されて、東洋レーヨンの取締役への転出申し渡しがあった。昭和12年1月中旬、東洋レーヨンの本社工場で、私の新しい生活が始まった。わが国レーヨン産業の開花期末葉に当たり、ここにある3つ目の工場はフル操業で、8500人の従業員を擁していた。私の役目は工場長代理であったが、何しろ工場勤めは全く初めてのことであり、専務取締役辛島浅彦さんの配慮で、労務の勉強をやることになった。
 しかし東洋レーヨンでは、私が赴任するずっと前から禁酒禁煙が厳守されていた。これは辛島さんが常務取締役・工場長のとき、工場生活で酒とたばこは従業員の保健上からも、工場の安全からも禁止したいとの考えから率先垂範されたものである。禁酒励行の社内ではあったが、私は物産営業マンの習慣で、同好の若ものを伴って飲み歩くうち、いつともなしに禁酒も和らいでいった。工場における禁煙も隠れて吸う者が後を絶たないため、辛島さんにお願いして随所に禁煙室を設けることにした。長年の「禁酒禁煙」の雪解けで「今度来た重役は話せる」と話題になったと後で聞かされた。

2.デュポン社からナイロン特許を導入
昭和20年(1945)11月24日、私は社長に選任された。ところが、連合軍の進駐政策は財閥の解体から追放に拡がり、私は三井財閥の子会社で常務取締役であったというので、22年6月に追放された。しかし、25年3月臨時総会で代表権をもった会長として元の東洋レーヨンに帰ることになった。
 東レの会長として初仕事はナイロンの工業生産を実現すること、これに関連して米国デュポン社からライセンスを譲り受けることであった。同年11月12日夕、デュポンからのライセンスに対する要求が届いた。ロイヤリティの前払いとして3百万ドルを要求していた。1ドル360円のレートで、10億8千万円となる。資本金7億5千万円をかなり上回る金額で、ウーンと思わずため息が出た。ビールを飲んでぐっすり眠った翌朝、手紙を再読していると、分割払いの考えが浮かんできた。
 ナイロン工場の建設にとりかかったのは、その年の7月で翌年4月に完成し、その開場式を済ませた後、デュポン社とナイロン・ライセンスの最終的交渉と契約のため、久しぶりに渡米の途についた。そして契約調印は昭和26年(1951)6月11日に終わった。

3.東レ財団の設立
東レという会社の業績が上がるのは、つまり社会や国家の恩顧によるものであり、それを忘れてはならぬ。企業も個人と同様、自分たちの住む社会をより住みよいものにするよう奉仕すべきである。昭和35年(1960)5月に10億円の基金を拠出し、「財団法人東レ科学振興会」を設立したのは、東レが社会奉仕の一端を有形的に打ち出したものにほかならぬ。
 日本のこれからは独創の技術を生み出し、外国技術と対抗できるようになることが強く要請されていた。それには科学を踏まえての基礎研究が必要となるので、東レ財団ではそれに対し毎年約1億円の研究費を何らのヒモを付けずに出そうということにした。財団が発足して今年で12年になるが、研究助成金は総額15億円に上り、理工学関係の基礎的研究に多大の貢献をしているし、産業発展にも役立っている。
 この財団をつくるに際しては、茅誠司先生、故笠信太郎さん等のお世話になり、向井忠晴さん、佐藤喜一郎さん、矢野一郎さん、故石川一郎さん、故小汀利得さんなどにも力を貸していただいた。

田代 茂樹(たしろ しげき、1890年(明治23年)12月5日 - 1981年(昭和56年)8月8日)は、東洋レーヨン元社長、元会長、元名誉会長、日本化学繊維協会元会長、日本腎臓財団初代会長、福岡県人会第三代会長、明治専門学校第一期生。

福岡県北九州市出身。旧制東筑中学(現在の福岡県立東筑高等学校)、明治専門学校(現在の九州工業大学)機械工学科を卒業後、三井物産に入社、24年間の勤続後、1936年東洋レーヨン(現在の東レ)に取締役として就任し、社長、会長、名誉会長を歴任した。1959年(昭和34年)日本インダストリアル・エンジニアリング協会初代会長に就任[1]1960年に(財)東洋レーヨン科学振興会を設立した。1972年日本経済新聞の名物コラム『私の履歴書』に東レの名誉会長として取り上げられた。

  1. ^ 歴史日本インダストリアル・エンジニアリング協会
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