田中耕太郎 たなか こうたろう

行政・司法

掲載時肩書前最高裁長官
掲載期間1961/01/01〜1961/01/31
出身地鹿児島県
生年月日1890/10/25
掲載回数31 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社内務省
配偶者松本烝治 娘
主な仕事東大、法哲学、欧米留学約3年、安孫子時代、吉田・文相、最高裁長官、国際司法判事
恩師山田三良、岩元禎教授
人脈永野護、新渡戸校長、鶴見祐輔、森戸辰男、南原繁、唐沢俊樹、内村鑑三、岩下壮一神父、柳宗悦、前田多門、安倍能成、山本有三
備考クリスチャン 新教→旧教
論評

1890年(明治23年)10月25日 – 1974年(昭和49年)3月1日)は鹿児島県生まれ。法学者、法哲学者。法学博士。内務省に勤務するが、1年半で退官。1917年(大正6年)に東京帝国大学助教授となる。この頃、修猷館・一高・東大の先輩である塚本虎二の紹介で、無教会主義キリスト教の内村鑑三の門下生となっている。欧米留学後、1923年(大正12年)に東京帝国大学教授に就任、商法講座を担当した。東京帝国大学大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、日本学士院会員。日本法哲学会初代会長。

1.街頭演説会で飛び入り(東大助教授時代)
私は内村鑑三先生の聖書研究会である柏木のグループに属するようになった。先生が我々を動かしたのは、特に先生の徹底した「信仰による救い」、つまりルッテル的な聖書の解釈であった。
 ある日のこと、柏木グループが珍しく街頭に進出し、本郷追分の基督教青年会で講演会を開いた。講師の中には、藤井武、黒崎幸吉、塚本虎二の諸氏がいた。聴衆の一人としてこれらの先輩の講演を傾聴していた私は、日独戦争の最中に戦争と平和の問題が誰によっても取り上げられなかったのをじれったく感じた。生まれてから一度も一般公衆の前に立った経験のない私は、一大決心をして飛び入り演説を行った。
 その趣旨は極めて単純なものであった。戦争を弁明する理論は種々ありうるであろう。それは死刑についても同様である。それまで最前列で弟子達の演説を聴いておられた内村先生は、私の非戦論になると、黙っていられなくなって、この方は自分が本家本元だと前書きして一席の講演をやった。かくてキリスト教講演会は非戦論演説会に終わった。

2.私が「何故にカトリックとなったか」(無教会的プロテスタントから)
約3年の欧米留学から帰ってからも、内村先生の講演の前座を務めるほどの関係は続いていた。しかし、私は先生から破門を受けた。というのは先の聖書研究グループへの出入りを差し止められたのである。それは、ある弟子達の間の婚姻に先生が聖書の立場から反対されているにかかわらず、私がその媒酌をつとめたこと(この結婚式には十河信二氏が友人として立ち会った)が、先生の逆鱗に触れたのだった。
 私の言い分は、無教会の立場においては、聖書の解釈権者は信者一個人以外にはない。解釈が個人個人で違う場合に、その上に立っていずれが正しいかを裁判する権威者は認められない。私は誤っているかもしれない。しかし先生といえども私の解釈を誤っていると断定する何らの権威を持たない。我々を追放されたことは、先生が自身のグループを教会化することである。それは無教会主義の立場と根本的に矛盾する。破門は単なる感情的な措置にほかならないというにあった。

3.敗戦後の国家体制を検討(三年会で)
昭和19年(1944)の末ごろから、名義上会長として西田幾多郎博士をいただき、安倍能成、志賀直哉、和辻哲郎、山本有三、谷川徹三、加瀬俊一(重光外相秘書官)など8,9名が極秘裏に会合して、二週間に一度くらい終戦の促進と敗戦後の国家の体制について話し合った。この会ははじめ重光氏の官邸で、その出席の下に開かれていたから、官邸所在の町名をとって三年会と呼んだ。重光氏の外相辞任後は志賀邸、高輪の前田邸や焼け出された私の移転先の田園調布の松本方に集まった。
 戦争が終わると間もなく、三年会は拡大されて、会員数十人の「同心会」が発足した。我々は右にも左にも偏らない高級な文化雑誌の発刊を思い立った。雑誌は阿部さんが口をきいて岩波に引き受けてもらうようになった。その「世界」という名称は、我々が相談した際これを提案した谷川君の意見によったものである。創刊号の発刊の辞は私が引き受けさせられた。しかし、一両年経つうちに創刊当時の趣旨から離れてきたので、我々は武者小路さんが始めた今日の雑誌「心」に乗り換え、これに専念するようになったのである。

田中 耕太郎
たなか こうたろう
Kotaro Tanaka.jpg
田中耕太郎(1961年)
生年月日 (1890-10-25) 1890年10月25日
出生地 日本の旗 鹿児島県鹿児島市
没年月日 (1974-03-01) 1974年3月1日(83歳没)
死没地 日本の旗 東京都
出身校 東京帝国大学法科大学
所属政党 緑風会
称号 正二位大勲位法学博士
配偶者 田中峰子

内閣 第1次吉田内閣
在任期間 1946年5月22日 - 1947年1月31日

在任期間 1946年6月8日 - 1947年5月2日

選挙区 全国区選出
在任期間 1947年5月3日 - 1950年3月1日

在任期間 1950年3月3日 - 1960年10月24日
天皇 昭和天皇
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田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年明治23年)10月25日 - 1974年昭和49年)3月1日)は、日本法学者法哲学者。法学博士東京帝国大学大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官国際司法裁判所判事日本学士院会員。日本法哲学会初代会長。文化勲章勲一等旭日桐花大綬章を受章。大勲位菊花大綬章を没後叙勲[注釈 1]正二位を追贈された。
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