掲載時肩書 | 女優 |
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掲載期間 | 1975/03/05〜1975/03/31 |
出身地 | 山口県 |
生年月日 | 1909/12/29 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 66 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 琵琶歌劇団 |
配偶者 | |
主な仕事 | 松竹蒲田、トーキー、渡米第1号、舞台劇、女流監督第1号(5本)、 |
恩師 | 溝口健二 (反射しろ) |
人脈 | 長谷川一夫(1歳上・共演多)、上原謙 、成瀬巳喜男(無口) |
備考 | 慶應応援 |
たなか きぬよ 田中 絹代 | |||||||||||
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![]() 『人生のお荷物』(1935年) | |||||||||||
本名 | 田中 絹代 | ||||||||||
別名義 | 田中 錦華(たなか きんか) | ||||||||||
生年月日 | 1909年11月29日 | ||||||||||
没年月日 | 1977年3月21日(67歳没) | ||||||||||
出生地 | ![]() | ||||||||||
死没地 | ![]() | ||||||||||
身長 | 152cm | ||||||||||
職業 | 女優、映画監督 | ||||||||||
ジャンル | 歌劇、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー)、テレビドラマ | ||||||||||
活動期間 | 1919年 - 1977年 | ||||||||||
活動内容 | 1920年:琵琶少女歌劇に入団 1924年:松竹下加茂撮影所に入社 1925年:松竹蒲田撮影所に移籍 1949年:日米親善使節として渡米、松竹を退社 1953年:『恋文』で初監督 1966年:テレビドラマに初出演 1977年:死去 | ||||||||||
配偶者 | なし | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
映画 『愛染かつら』[1] 『女優須磨子の恋』 『西鶴一代女』[1] 『雨月物語』[1] 『安宅家の人々』 『異母兄弟』 『楢山節考』 『おとうと』 『サンダカン八番娼館 望郷』 テレビドラマ 『樅ノ木は残った』 『前略おふくろ様』 『雲のじゅうたん』 | |||||||||||
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備考 | |||||||||||
勲三等瑞宝章(1977年) 紫綬褒章(1970年) 芸術選奨文部大臣賞(1974年) |
田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日[1])は、日本の女優、映画監督。本名同じ。旧芸名は田中 錦華(たなか きんか)。
黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。小津安二郎、五所平之助、溝口健二、成瀬巳喜男、清水宏、木下惠介ら大物監督に重用され、約260本の作品に出演した。14歳で松竹に入社し、清純派スターとして人気を得て、松竹の看板女優となった。戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し[2]、脇役を演じることが多くなるも円熟した演技を見せ、晩年は『サンダカン八番娼館 望郷』の演技でベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀主演女優賞)を受賞した。主な作品に『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』『雨月物語』『煙突の見える場所』『楢山節考』『おとうと』など。また、映画監督としても6本の作品を残している。