掲載時肩書 | 国際オリンピック委員 |
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掲載期間 | 1995/03/01〜1995/03/31 |
出身地 | 北海道国後 |
生年月日 | 1931/05/20 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 米国ダートマス大学 |
学歴その他 | 小学校4回転校 |
入社 | AIU保険 |
配偶者 | 恒文 社長娘 |
主な仕事 | オスロ(高)、全米優勝、米国留学、コルティナ2位(大24歳)、スコォバレー(28歳)、45歳日本AIU部長、アメリカンホーム社長、IOC委員、長野五輪、トライアスロン |
恩師・恩人 | 田島一男、スターAIU創設者 |
人脈 | 水上久、杉山進、竹田恒徳(IOC)、IOC会長(ブランデージ、サマランチ)、加賀美秀夫夫妻、青木盛久 |
備考 | 父群馬・ スキー、引越30回、 |
1931年5月20日 – )は北海道生まれ。アルペンスキー選手、実業家。日本人初の冬季オリンピックメダリスト(2018年3月時点、日本人唯一の冬季オリンピックアルペンスキーメダリスト)。厳しいトレーニングが功を奏し、1943年、11歳の時に前走者として出場した神宮大会(現在の全日本スキー選手権)では優勝者より6秒早いタイムでゴール、「神童」「天才スキー少年」と呼ばれるようになる。1948年に長野県で開催された国民体育大会でも優勝し、オスロオリンピック代表に決定した。オスロオリンピック後、猪谷はAIG社長スター氏から全米アルペン競技選手権に招待され、2位に入賞する。猪谷はその後日本に戻り立教大学に入学していたが、1953年、アメリカのダートマス大学に留学し、勉学に励む傍ら、より良い環境でスキーの練習を続けることとなった。また関係者の尽力によりコルチナ・ダンペッツォオリンピック日本代表に選ばれることができた。猪谷は滑降、回転、大回転に出場、滑降では失格となったが、大回転では11位。そして回転では銀メダルを獲得した。このメダルは冬季オリンピックで日本代表選手が獲得した初めてのメダルであるとともに、欧州以外からの出場選手がアルペンスキー競技で獲得した初めてのメダルともなった。
1.鬼オヤジの生活管理
父から「遊ぶ暇はない。遊ぶ時間があれば、トレーニングや家の手伝いをしなさい」といつも言われていた。
午前中が学校で、午後は練習の毎日だった。小学校の時は遊ぶことが人生最大の楽しみであり、仕事でもある。しかし父はそれを許さなかったどころか、生活日記の記帳まで私に義務付け、日常を厳しく管理した。どういうものかというと、登校時間を記入し、トレーニング、手伝い、作法、勉強など10数項目に、10点満点方式で私自身が採点するものだった。そして寝る前に親子3人が集まり、行動チエックをしたのだ。
2.孟母三遷の実行
小学校6年になった1943年、中学進学を控えて、また引っ越しの問題が起きた。スキーができ、中学校に通える場所というのが、両親の条件だった。その年の8月新潟県の土樽へ引っ越した。次に移ったのが青森県の浅虫である。浅虫スキー場は最長点からでも千メートルに足らないゲレンデであったが、学校から自宅までわずか800mと近かったことが魅力だった。
結局、私は小学校の6年間に、4つの学校に通ったことになる。群馬県赤城山の分教場に入学し、長野県の大野川小学校、そして土樽、浅虫である。時には父と口論しても私の学業に気を配ってくれた母の意見が反映された結果だった。まさに「孟母三遷の教え」の実行のように思える。
3.コルティナダンペッツォ五輪で銀メダル
1956年に第7回冬季五輪がここで開かれたが、イタリア北部の人口6千人ほどの小さな町だった。アルペン最初の大回転で、私は11位だった。二日後の回転種目にターゲットを当てていたので、まぁ良しとした。
回転は2回の合計タイムで勝敗を競う。1回目の旗門数は78,2回目は92だった。回転で92旗門は記録的な数である。私の滑走順は七番目。野崎疆監督とも相談し、1回目は慎重に滑り、2回目に勝負をかける作戦をとった。一回目に転倒しては、元も子もなくなるからだ。安全策をとった私は6位だった。予定通りの展開である。1位はトニー・ザイラー(オーストリア)だった。
2回目も、相変わらずの悪天候と氷結したアイスバーンに、転倒する選手が続出した。私は最初から飛ばした。迷いは全くなかった。快調なペースだったが、第6旗門で外側のポールを両スキーの間に挟み、危うく転倒しそうになった。しかし、タイムは1分48秒5,一回目と合わせると3分18秒7で、ザイラーに次ぐ2位のタイムだった。表彰式は午後九時からだった。ザイラー、私、ソランダー(スエーデン)が紹介され、スポットライトに照らされる中、ブランデージ会長から銀メダルを受け取った。表彰台から見る日の丸の旗は素晴らしく、知らず知らず目頭が熱くなった。興奮と寒さも手伝い、体が震えるのを止められなかった。
猪谷 千春 | |||||||||||||||||||||
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猪谷千春(1956年) | |||||||||||||||||||||
名前 | |||||||||||||||||||||
カタカナ | イガヤ チハル | ||||||||||||||||||||
ラテン文字 | IGAYA, Chiharu | ||||||||||||||||||||
基本情報 | |||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||
種目 | アルペンスキー | ||||||||||||||||||||
生年月日 | 1931年5月20日(93歳) | ||||||||||||||||||||
生誕地 | 北海道・国後島 | ||||||||||||||||||||
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猪谷 千春(いがや ちはる、1931年5月20日 - )は、日本のアルペンスキー選手、実業家。日本人初の冬季オリンピックメダリスト(2018年3月時点、日本人唯一の冬季オリンピックアルペンスキーメダリスト)。引退後はAIU保険会社で実業家として活躍しつつ、国際オリンピック委員会(IOC)副会長など、オリンピック・スポーツ関連団体での要職を歴任した。いつも黒いウェアで競技をしていたことから「ブラック・キャット」とも呼ばれていた[1]。