熊谷守一 くまがい もりかず

芸術

掲載時肩書画家
掲載期間1971/06/14〜1971/07/12
出身地岐阜県
生年月日1880/04/02
掲載回数29 回
執筆時年齢91 歳
最終学歴
東京藝術大学
学歴その他慶応中退
入社樺太調査団
配偶者40歳すぎて結婚
主な仕事卒業時「自画像」、鍛冶屋、音楽(セロ・三味線)、水墨 画、鳥も有名、画人を超越
恩師・恩人
人脈同級(青木繁・不遜)、坂本慎太郎、教授(黒田清輝、 藤島武二)、相馬愛蔵(中村屋)、有島生馬
備考父:初代岐阜市長
論評

1880年〈明治13年〉4月2日 – 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。

1.変わり者の青木繁
東京美術学校の先生は黒田清輝、藤島武二、長原孝太郎の3人。しかし、毎日の授業は藤島先生でした。のちに岡田三郎助、和田英作といった教授陣が加わった
青木繁は絵がうまかったから、みんなから一目置かれていましたが、傲慢というか、いつもあたりを睥睨しているのです。教室で絵を描いている時に、黒田先生が入ってくると「あんなヤツに絵を見てもらう筋合いはない」との意思表示で、スーッと出ていく。それもただ出ていけばよいのに、わざと戸をバタンとさせて、肩をそびやかせて行く。だが青木は、ひどい貧乏で絵具もロクに買えません。それで少しはしおらしくするかというと、全然へこたれずに、アゴを突き出して威張っている。そして、友達の絵具箱を黙ってひょいと持って、どんどん写生に行くのです。

2.モノグサ
部屋の掃除は年に一度か二度やっただけでした。畳のよく使うところに新聞紙を敷き詰めておいて、ホコリがたまるとまた新しい新聞紙をのせるという方式をとりました。これで、掃除から掃除まで5、6枚も敷けば十分でした。着物もほとんど着たきりスズメでした。汚れがひどくなっても、しばらく吊るしたままにしておくと、いくらかサラッとしてアカもとれる感じになるのです。
 
3.結婚と貧乏絵描
大正11年(1922)に、紀州の大江秀子と結婚しました。私はもう40を過ぎていましたが別に主義で独身を通していたわけでなく、一人で勝手なことばかりやっていたので結婚が遅くなっていただけでした。私は前から大変な金なしでしたが、妻と一緒になってからは一層貧乏がつのりました。
 我が家の収入といえば二科会の研究所から車代という名目で出ていた30円だけでした。しかし、家賃がちょうど30円で、これではどうしょうもないと妻は言っていました。妻からは何べんも、「絵を書いて下さい」と言われました。たとえいいできでなくとも、作品さえできれば何とか金に換えられるというのです。妻ばかりでなく、周りの人や実姉からも責め立てられました。たしかに、それは言われる通りなのです。しかし何度も言うようですが、あのころはとても売る絵は描けなかったのです。

4.絵の見方、考え方
私は上手とか下手ということで絵を見ません。絵をいくつか見せられて、すぐパッと目に入る上手なのが必ずあります。しかし、じっと見ていると、だんだんそれほどでもないように見えてくるものです。
 二科の研究生に「どうしたらいい絵が描けるか」と聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵を描けばいい」と答えていました。下品な人は下品な絵を描きなさい、ばかな人はばかな絵を描きなさい、下手な人は下手な絵を描きなさい、とそう言っていました。
 結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。無理に何とかしようと思っても、ロクなことになりません。
 私はほんとうに不心得者です。誰が相手にしてくれなくても、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっと眺めているだけで、何日も何月も暮らせます。監獄に入って、いちばん楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かも知れません」。

1942年(安井仲治撮影)

熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月2日 - 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。

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