掲載時肩書 | 読売新聞主筆 |
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掲載期間 | 2006/12/01〜2006/12/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1926/05/30 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 東京高校 |
入社 | 読売新聞 |
配偶者 | 28人目プロ ポーズ |
主な仕事 | 週刊新聞担当、政治部、(鳩山、大野伴睦、中曽根)番、ワシントン局、憲法調査会 |
恩師・恩人 | 正力松太郎、務台光雄、小林与三次社長 |
人脈 | 氏家斉一郎(大)、森本哲郎、西山太吉、羽仁五郎、猪木正道、堤清二、戸川猪佐武、長嶋茂雄 |
備考 | 政界の裏面史を語る、宇都宮徳馬仲人 |
1926年〈大正15年〉5月30日 -)は東京生まれ。新聞記者、実業家。株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆。「ナベツネ」の通称で知られる。株式会社読売新聞社社長、球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長などを歴任した。日本プロ野球界に関連する彼の伝説は数知れず、自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ、マスメディアにおいて「球界の独裁者」または単に「独裁者」と呼ばれていることについては、渡邉自身が認めている。他に「メディア界のドン」「政界フィクサー」とも呼ばれる。
1.首相官邸の番記者
ここの記者は首相を追いかけるのが仕事だ。官邸詰めの記者たちはマスコミを毛嫌いするワンマンの吉田首相に反発し、同じ自由党でも首相のライバルだった鳩山一郎さんに好感を持っていた。だから官邸のキャップに「鳩山邸に通え」と言われたのは願ってもないことだった。
と言ってもすぐには鳩山さんに会えない。鳩山派の会合でも朝日新聞の若宮小太郎さんだけは部屋に入れてもらえるのに、私は窓ガラス越しにしか取材できなかった。そこで脳出血で半身が不自由だった鳩山さんのお散歩のお供をすることにした。手を引き、肩を貸して何時間でも一緒に歩く。次第に「吉田のばかやろ!」などといった本音が聞けるようになった。
庭の芝生で由紀夫君や邦夫君を背中に乗せて「馬」になったりしていたが、彼らは覚えていないらしい。
2.28人目のプロポーズ
鳩山内閣の誕生を見届けて厚生省と労働省の担当に変わった。先輩の紹介で見合いをしたのはその頃だ。当時の私は二人の女性(美人コンテストで優勝した女性と記者のたまり場バーに勤めていた女性)の間で、どう身を処するつもりだったのだろうか。しかしものごとは落ち着くところに落ち着くものだ。私が見合いをした女性と日比谷公園を歩いていた。そこで別れたはずの男性と一緒にバーの女性とすれ違う。詳しいことは書けないが、この鉢合わせを機に二人の女性との縁は切れた。
暫くして、今度は後輩から声をかけてきた。「同じアパートに住んでいる女性で外国映画の女優のような美人がいるんです」。飲み屋の二階で会ってみると外国の女優にはほど遠いものの、私の好みの容貌と人柄の女性だった。いや結果から言えば一目惚れだった。次に会った時に「これまで何人にも求婚しています。あなたで28回目のプロポーズですが、過去の27人の誰より素晴らしい」と奇妙な論理で口説き、そのまま口づけした。女性は拒まない。それが答えだった。
3.中曽根康弘さん
正力さんから中曽根さんに毎日会えと厳命され、国会近くにあった議員宿舎に行った。議員宿舎は八畳一間に流しだけでトイレと風呂は共同。そこに親子五人が寝起きしていた。暫くして「ベルサイユ宮殿のような宿舎に移った」と言うので行ってみたら、3Kの簡素なアパートだった。参院議員になっている弘文君たちが眠る布団の傍にコップを置いて語り合った。その質実な生活ぶりに魅了され、次第に親しくなっていく。
4.政治記者の心得
記者は知ったことを何でも書けばいいというものではない。政治の世界は、内部に食い込んで細部まで分かったうえでないと全体も部分も見えてこないものだ。そして書くべき時期に書くべきことを書く。オフレコを破り、取材源の信頼を失えばスクープはとれない。政局さえ動かすスクープを書くには、タイミングをはかる忍耐が必要だ。
氏は2024年12月19日に98歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は06年12月で80歳でした。ジャーナリストで登場は、高橋亀吉(1960.4)、長谷川如是閑(1963.1)、渋沢秀雄(1964.6)、小汀利得(1971.2)、金森久雄(2004.9)に次いで6人目でした。
本日の日本経済新聞の「春秋」では次の「追悼」文が掲載されていた。2024.12.20付
「渡辺恒雄氏に赤紙が来たのは、1945年春に東大に入ってまもなくである。当時19歳。配属先の砲兵隊には木製の弾しかなかったそうだ。「本土決戦なんて言っていた奴(やつ)は許せない。本当にバカげた戦争だった」。後にそう述べている(週刊文春編「私の大往生」)。
▼小学校で詩人、中学で哲学者を志した早熟の人。戦時中はヤミ米で哲学書を購(あがな)うこともあった。敗戦後に復学するとカントを貪るように読む。そのころ共産党に入ったのは「軍国主義体制を粉砕したかったから」と自著にある。実体験をもって先の大戦を指弾する立ち位置は、保守の論を張る後年もぶれることがなかった。
▼新聞人としては異形であろう。「俺に衆院議長のポストを取ってきてくれ」。政治記者時代、昵懇(じっこん)の政治家からそんなことまで頼まれたというから驚きだ。大きな新聞を自らの路線に染めつつ、同時に政界のプレーヤーを演じる。比類なき腕力は、賛否の嵐とともに常に日本中の耳目を集めた。まさに圧倒的存在感であった。
▼戦後をさらに後景へ退かせる、その訃報である。時あたかもSNS全盛だ。社会が姿を変えていく時代にあって、氏は哲学的思考の大切さを説き続けてきた。改めて足跡に学ぶところは少なくない。生まれ変われたら? 晩年問われると「それはもう、当然新聞記者ですよ」。巨星の熱意に敬服し、静かにいずまいを正す。
同じく「評伝」として、次のように書いている。
「昭和100年・戦後80年を前に、時代を代表する人物がまたひとり逝った。読売新聞を最大の発行部数を誇るまでに成長させ、政界への影響力を隠そうともしなかった渡辺恒雄その人である。毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする稀有(けう)な新聞人だった。メディアやプロ野球など業界のためには、あえて矢面に立ち、悪役も引きうけた。見解を異にすれば、当時の安倍晋三首相であれ菅義偉官房長官であれ、けんか腰で食ってかかった。その迫力たるや同席していて気おされるほどだった。
スタートは「義理と人情」の政治家といわれた自由党総務会長の大野伴睦の番記者だ。どこか妙に義理がたいところがあったのは大野ゆずりだったのだろう。心憎いまでの気配りの人でもあった。後輩記者の記事にも左に傾いた判読に困る字で、激励の手紙を送ってくれた。
政治の世界とのかかわりは、記者として政治部長、論説委員長そして主筆と70年以上におよんだ。社内の関係者はだれもが社長や会長ではなく「主筆」といった。本人がそうよばれることを好んだ。そこには新聞記者としての矜持(きょうじ)があった。カントを学び哲学から最新の学問までその旺盛な知識欲と蓄積はとても太刀打ちできなかった。そしてなによりも目立ったのが実際に政局を動かそうとした政治のプレーヤーとしての存在だ。政治家も「ナベツネ詣で」といっていいほど、与野党を問わず、おりあるごとにたずねた。さまざまな局面で政界の中枢に関与して、あるときは指南役として、またあるときは仲介者として、はたまた仕掛け人として、動いたのは広く知られるところだ。ここまで現実政治に関与した新聞記者はほかにはあるまい。もちろんそこには当然、批判がある。権力を監視する役割としてのジャーナリズムからは明らかに逸脱しているからだ。
個人的な関係にふれるのを許していただきたい。学生時代、渡辺講師の新聞論の講義をきいた。表にできない話の連続で驚くことばかりだった。政治記者になり、あるパーティーで会った際、あいさつしてその旨を伝えた。するとその後「教え子」として面倒をみてくれた。夫人を亡くした直後、「家に帰っても女房がいないのは寂しいものだ」と珍しく弱音をはくのを聞いたことがある。しかしその強固な精神力で、ここ数年は入退院を繰りかえしながら常に不死鳥のようによみがえってきていた。
「終生一記者を貫く 渡辺恒雄之碑 中曽根康弘」――。墓碑にはそう刻まれるはずだ。生前、盟友でもあった中曽根元首相に依頼、準備したという。渡辺氏の逝去は昭和の日本政治の晩鐘そのものである。(客員編集委員 芹川洋一)
この項目は訃報が伝えられた直後の人物について扱っています。 |
渡邉 恒雄 | |
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生誕 | 1926年5月30日 日本・東京府豊多摩郡 (現:東京都杉並区) |
死没 | 2024年12月19日(98歳没) 日本・東京都 |
別名 | ワタツネ、ナベツネ |
教育 | 東京大学文学部哲学科卒業 |
職業 | 読売新聞グループ本社主筆 旭日大綬章 |
活動期間 | 1950年 - 2024年 |
渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年〈大正15年〉5月30日 - 2024年〈令和6年〉12月19日[1])は、日本の新聞記者・実業家。株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆。勲等は旭日大綬章。「ナベツネ」の通称で知られ[2]、読売関係者の間では「ワタツネ」と呼ばれていた[3]。株式会社読売新聞社社長、読売ジャイアンツの球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長を歴任した。日本のプロ野球界に関連する渡邉の伝説は数知れず[4]、自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ[5]、マスメディアにおいて「野球界の独裁者」または単に「独裁者ヒトラー」と呼ばれていることについては渡邉自身が認めていた。他にも「メディア界のドン」「政界の大フィクサー」とも呼ばれた(詳細は後述)[6]。