掲載時肩書 | 映画評論家 |
---|---|
掲載期間 | 1997/12/01〜1997/12/31 |
出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | 1909/04/10 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 88 歳 |
最終学歴 | 日本大学 |
学歴その他 | |
入社 | 映画世界社 |
配偶者 | 生涯独身 |
主な仕事 | 4歳週9本映画、united.artist社、松竹手伝い、映画之友、ハリウッドで映画人と交遊、日曜洋画劇場30年、 |
恩師・恩人 | 南部圭之介 |
人脈 | 橘弘一郎社主、双葉十三郎、チャプリン、谷崎潤一郎、姉・富子(上村松園弟子) |
備考 | 名家:料理屋、置き屋 |
1909年(明治42年)4月10日 – 1998年11月11日)は兵庫県生まれ。雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ!」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になった。1951年(昭和26年)に『映画の友』の仕事でハリウッドに向かった淀川は、東京国際空港からホノルル国際空港へ向かうパンアメリカン航空のボーイング377の機内でクラレンス・ブラウン監督と邂逅し、機内のラウンジで話し込んだほか、ハリウッドに滞在していた際には、アカデミー賞にノミネートされていた黒澤の「羅生門」の代理出席者として、授賞式に代理人として招待された。
1.映画を生涯の友に
4歳から毎週9本も映画を両親と観る習慣がつきました。8歳ごろには一人でどこの映画館にも堂々と入場した。グリフィス監督の「散りゆく花」、チャップリンの「担え銃」、ストロハイム監督の「愚かなる妻」、メルフォード監督の「吾が妻を見よ」など、中学生時代に観た名作はいまでも、88歳を迎えた今の私でも、ファースト・シーンからラストまで語れるくらいである。
10歳のときに観た「ウーマン」(1918年作、アメリカ映画)は私に映画もまた文豪小説の名作にいささかも負けぬ感激を輝かすものと悟らせ、この映画をもって私は生涯ともに生き抜こうと堅く決心したのであった。
2.トーキー登場で驚天動地
大正14年(1925)10月、私はトーキーの前身ともいうべき映画を神戸の聚楽館で観た。男女二人のダンス、ヴァイオリンの演奏、大統領の演説、エディ・キャンターの爆笑舞台での発声、その他からなっていた。とにかく、画面から鼻詰まりのアメリカ人の声が聞こえ、ヴァイオリンを弾く手の指と「ユーモレスク」のメロディがピッタリ合って画面から「音」が出たことで、私は呼吸が止まった。驚天動地、まさにひっくり返った。
3.チャップリンと会見(船上、3分の予定が42分も)
昭和11年(1936)3月、私は26歳、チャップリンは46歳、そして花嫁ポーレット24歳。私は神戸メリケン波止場の岸壁に駆けつけた。ユナイテッド・アーチスト社のバッジとメダルを胸につけ、当時アメリカ発行の第一級演劇映画雑誌「ステイジ」誌を胸に抱えて・・。船長は面会をなかなか許してくれなかったが、やっと「3分だけだよ。あと30分デッキで待ちたまえ」と許可をくれた。
やっと会えた。あらん限りの英語で「あなたの映画をほとんど全部見ています」と言い、その映画名を次々と列挙して、ほんとうに観ていることを証明するため、「番頭」(ポーンショップ)のワン・シーンのチャップリン演技のまねをして見せた。尊厳と愛情があふれると、かかる行動ができるのだった。しばし、私を見つめていたチャップリンはニッコリ笑って、「このデッキは寒い、中へお入り」と私を自分の船室へ誘ったのだった。
いったい私は何を語ったのだろう。いちいちうなずき、私の質問にも面白そうに答えてくれて、「次回は」とポーレットを指して、「彼女主演の悲劇を撮るんだ」と私にソーッと教えてくれた。私が「あの『パリの女性』のように」と言うと、「イエス、イエス」とうなずいて、「私は今度も、監督をするだけだよ」と教えてくれた。
4.映画は教科書(一番大切なことは愛)
88歳の今、私は映画から「人間愛」を学んだが、3つのスローガンを貰っている。
1.「苦労こい」:苦労から逃げても人間には苦労は必ずあるんだから、むしろ「こい、こい」とこちらから招く。
2.「他人歓迎」:他人と思うから用心する。身内なら用心しない。人を他人と思うと愛が生まれない。
3.「わたくしは、まだかって嫌いな人に、会ったことがない」:この言葉が私を若くする。イヤな人は、やっぱりみんなに嫌がられている。だが、どこか一つくらい、良いところがあるに違いない。そう思って注意すると見つけることができる。嫌がられている人はみんな孤独だ。そんな人ほど愛に餓えているからだ。
淀川 長治 | |
---|---|
学習研究社『暮らしの知恵』第1巻第4号より | |
誕生 | 1909年4月10日 兵庫県神戸市 |
死没 | 1998年11月11日(89歳没) 東京都文京区本郷[1] (東京大学医学部附属病院) |
墓地 | 神戸市の須磨寺 |
職業 | 映画評論家・雑誌編集者 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1927年 - 1998年 |
ジャンル | 映画評論 |
主な受賞歴 | 第10回キネマ旬報読者賞 第4回川喜多賞 日本映画ペン倶楽部賞 朝日賞 第36回ゴールデン・アロー賞特別賞 |
パートナー | 独身(未婚) |
親族 | 淀川又七(父) りゅう(母) 淀川美代子(編集者、姪) |
公式サイト | プロフィール |
淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。
約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になり[2]、「ヨドチョーさん」「ヨドさん」「サヨナラおじさん」等と呼ばれる程に多くの視聴者に親しまれてきた。