掲載時肩書 | MetaMoji社長 |
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掲載期間 | 2022/03/01〜2022/03/31 |
出身地 | 愛媛県 |
生年月日 | 1949/05/05 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 愛媛大学 |
学歴その他 | |
入社 | 西芝電機 |
配偶者 | 大学同級生・初子 |
主な仕事 | 設計担当、29歳独立(justsystem)、一太郎、Ver4.バグ発生、検索system、キーエンス提携、60歳再出発 |
恩師・恩人 | 妻の祖母 |
人脈 | 谷口数造、古川亨、成毛真、福良伴昭、孫正義、紀田順一郎、中川正樹 |
備考 | 妻はビジネスパートナー(経営は二人三脚で) |
この「履歴書」初日の見出しは「夫婦の物語」であり、妻と二人でつくった「一太郎」や手書きシステム開発が日本語の知的活動を支えてきたと誇る夫婦の半生を語ってくれていた。今まで870名登場の「私の履歴書」で夫婦共同の業績が評価されて登場したのは、免疫医学者の石坂公成ご夫妻に次いで2番目である。石坂氏はこの「履歴書」に「我々は」という言葉で、共同研究者だった妻・照子夫人の貢献を書いている。彼女は東京女子医大をトップ卒業し、同じアレルギー研究をしていた石坂氏と結婚する。彼女は夫との共同研究の成果を高評価され、ジョンスホプキンス大学二人目の女性教授にもなった才媛でした。浮川氏も初子夫人への賛辞を惜しまない夫婦の物語であった。
1.独立時の営業研修
東芝系企業の西芝電機を辞めて独立したのが1979年4月30歳のことだ。妻・初子の実家がある徳島に拠点を置いて、オフィスコンピューター(オフコン)を地元の企業に売り込もうと考えた。私たち二人が販売契約を結んだのは日本ビジネスコンピューター(現JBCCホールディングス)だった。JBCC創業者の谷口数造さんのご好意で、開業する前に大阪JBCCの営業所で3か月間、営業の研修を受けることになった。
初子と一緒に大阪の中心地、天神橋筋に部屋を借りてオフコン営業の武者修行である。私の研修を担当する営業マンに、「このビルの上から下まで全部の会社に飛び込み営業をしてください」と言われた。躊躇する暇なく、1社ずつ回ったが、結果は散々だった。「総務部長に合わせていただけないでしょうか」。そう言ってもほとんどが受付で門前払いだった。朝から晩まで飛び込みの日が何日も続いた。
2.ワープロ基本ソフトの開発を始める
パソコンより前の時代のコンピュータは、メーカーが独自に開発した基本ソフト(OS)を搭載していた。パソコンになると米マイクロソフトの「MS-DOS」などが使われるようになっていた。初子は前職でオフコンのOS開発に参加していたこともあり「日本語の入力をOSレベルで組み込めないか」と構想していた。当社の取引先であるハードメーカーのロジック・システム・インターナショナルの力強い勧めで、1982年オフコンの販売代理店だった我々ジャストシステムは日本語ワープロソフトの開発を始めた。
これにより「OSレベルで日本語を入力する方式」を提供する開発会社へと変貌することで、ハードメーカーとの千載一隅のチャンスを得ることができた。そしてその後、ワープロソフトの「JS-WORD」から「一太郎」と繋がり、自社ブランド商品で勝負できるヒットメーカーになることができた。
3.バグ除去合宿
「一太郎バージョン4」のバグ(不具合)問題が発生し、電話がジャンジャン会社にかかってくる。サポートと営業マンが対応するが、謝るしかない。断腸の思いでバージョン4は店頭から回収することになった。
デバッグ(バグの除去作業)のために合宿しようと提案したのが、福良伴昭君だった。合宿の場所に選んだのが徳島市からやや離れた場所にある鳴門市の公営施設だった。そこなら自宅に帰る必要もなく24時間体制でデバッグの作業に集中できる。大きなホワイトボードを置いて、バグを書き出していった。作業が進むたびに福良君が自分の席に担当者を呼んで指示を出し、バグを一つずつ潰していく。
毎日のようにプログラムをアップデートしては、徳島の本社に残るエンジニアたちがそれを試験する。作業は昼夜を問わない。鳴門の合宿所に集まった者も、本社で試験にあたる者も社員全員が全力を尽くしてくれた。2週間ほどの合宿を通して、仮眠をとる時間以外は文字通り24時間体制で福良君は現場を根気よく指揮してくれた。途中でアップデート版を挟みつつ、とうとうデバッグが完了したのが一太郎バージョン4.3だった。それで終わりではなく、我々はお客さんの信頼を取り戻さなければならない。1989年11月、既存のユーザーには4.3を無料で配布したが、その人数は23万人。費用はざっと10億円になった。こうして我々は4.3を世に出すと、全国の売上グラフは右肩上がりの曲線で結局、累計販売63万本の大ベストセラーとなった。
4.手書きアプリで二人は再出発
キーエンスから約44%の資本受け入れを決めてから1か月後の2009年5月のことだ。キーエンスから我々ジャストシステムの扱いについて提案を受けた。基礎研究は不要とのことでチームの解散を要求された。このチームを率いるのは専務の初子だ。既に副会長に退くことが決まっていた。だが、優秀な研究者が集まるジャストシステムのエンジニアたちをこのままみすみす解散させていいものか。初子と話し合った結果、初子がジャストシステムを離れ、彼らを引き連れて独立することになった。
私もよく考えると、同時期に退任する方が望ましいと判断した。そして新しい社名を考えることとなり、出てきたのが「メタモジ」だった。メタには超えるという意味がある。「文字を超える」。ジャストシステムは一太郎という画期的な日本語ワープロソフトを世に送り出した。次の会社はそれを超えるようなものをつくる。こんな意味を込めて「MetaMoji」を設立した。私が社長で初子が専務。二人の再出発だ。60歳で選んだ夫婦での船出である。