濱田庄司 はまだ しょうじ

芸術

掲載時肩書陶芸家
掲載期間1974/04/24〜1974/05/23
出身地神奈川県
生年月日1894/12/09
掲載回数30 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京工業大学
学歴その他蔵前高工
入社陶磁器 試験場
配偶者見合い
主な仕事絵画、リーチと英3年留学・築窯、沖縄、韓国窯巡り、民藝(フォーク・クラフト)、益子、日本民藝館長
恩師板谷波山 井関双山
人脈木村荘八、河井寛次郎、リーチ、富本憲吉、柳宗悦、大原孫三郎、小山富士夫、青山二郎・武原はん夫妻
備考絵画、書道
論評

1894年(明治27年)12月9日 – 1978年(昭和53年)1月5日、本名象二)は神奈川県生まれ。主に昭和に活躍した日本の陶芸家。ほとんど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。柳宗悦の流れをうけて民芸運動に熱心であり、1961年(昭和36年)の柳の没後は日本民藝館の第2代館長に就任する。そして、1970年大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て1972年大阪日本民藝館の初代館長に就任した。また1977年(昭和52年)には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。

1.進路決定
府立一中の3年になると、将来を考えるようになった。ちょうど私が、「生活に役に立つ工芸」の道に進もうと心にきめたころだった。木村荘八さんの家で、画家や絵の雑誌を見ていると、ルノアールの次のような言葉が目に入った。「フランスには、大変多くの美術志望者がいるはずであるが、なぜそのほとんどが、絵だけを描きたがるのだろう。半分でも三分の一でも、工芸の道に入ってくれれば、工芸の質も大きく向上するだろうし、画家同士の過当競争も緩和されるであろうに」と。
 私はこの言葉を読んで、大いに勇気づけられた。なるほど、偉い大家が私と同じようなことを考えていたのかと、安心してその道に進むことになった。

2.盟友・バーナード・リーチ
彼は英国の法律家の子として生まれたが、生後すぐ母を亡くし同志社の先生をしていた京都在住の祖父のもとに預けられ、幼児は日本で過ごした。間もなく母国に帰ったが、チェルシーの美術学校で高村光太郎を知って日本への憧れの念を強くし、明治42年(1909)に再来日した。光太郎はリーチに禅話を語って聞かせ、東洋の心を説いたという。
 リーチは本来画家であるが、再来日に際してはエッチングの大きな機械を持ってきた。たとえ絵の道がうまくいかなくても、エッチングの技術を日本に広めることで生活の資は得られるだろうと考えたという。リーチの日本での食卓風景は独特であった。ご飯もパンも両方出していて、誰でも自由に好きなものを食べる。先にご飯を食べて、それからバターを塗ったパンに手を出す人もいたし、リーチなどはパンの後に茶漬けを食べていた。リーチ自作の大形の振り出しに大徳寺納豆が入っていて、「これはビーンチーズだ」といって、みんなで喜んで食べていた。

3.「民芸」言葉の由来
大正15年(1926)春、柳宗悦と河井寛次郎と私の3人で伊勢へ旅行した時の、道中の汽車の中で生まれた。三人で「何か新しい言葉はないか」と話しているうちに、「民衆の工芸」を詰めて「民芸」という言葉を得たのである。ドイツ語には、ちょうど該当する言葉があるが、英語には見当たらないようだから、「フォーククラフト」という造語を贈ろういうことになった。「アーツ(芸術)」でなくて、あくまで「クラフト(工芸)」なのである。

4.三越展覧会の恒例風景
毎年、展覧会の初日は大した騒ぎとなる。東京の場合は6階が会場だが、初日の朝の開門と同時に、階段を駆け上がって来る方々がいる。そして、1番の人が会場を左から回って好きなものから札を入れ始めると、2番は右から回り、3番は真ん中の奥の方に走っていく。ご熱心な方々に、毎年のようにご迷惑をかけるようで恐縮の限りなのだが、公平を期するにはこれ以外に方法はない。階段の競争に備えて、買いが近づくとお宮さんの石段で練習を積む人もいると聞いていて、頭が下がる。リーチ展ではもっと凄い。三越では整理券を出して一人焼き物2点、絵画1点かぎりと公平を期そうとしたが、全作品120点が、35秒で売り切れたということであった。

はまだ しょうじ
濱田 庄司
Shōji Hamada.png
濱田庄司(1967年または1968年)
職業陶芸家

濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年明治27年)12月9日 - 1978年昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家。次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫(晋作の次男)の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。

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