沢田美喜 さわだ みき

団体

掲載時肩書エリザベスSホーム園長
掲載期間1963/03/01〜1963/03/30
出身地東京都
生年月日1901/09/19
掲載回数30 回
執筆時年齢62 歳
最終学歴
お茶の水女子大学
学歴その他
入社
配偶者外交官 クリスチャン、
主な仕事父・岩崎久弥、ブラジル、北京、ロンドン、 パリ、ニュ-ヨーク、孤児院、
恩師・恩人
人脈弥太郎孫娘、木内信胤(従兄妹)、加藤 高明・幣原喜十郎(夫人はおば)、香水のコティ、ノーベル氏、パールバック女史、
備考横綱梅ケ谷に赤ん坊のとき抱かれる、息子嫁:安田祥子(由紀さおり姉)
論評

1901年9月19日- 1980年5月12日) 東京生まれ、社会事業家。
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、外交官の沢田廉三と結婚。4人の子に恵まれる。敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた。
三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥の長女として生まれる。岩崎家の宗教は真言宗だった。母・寧子は子爵保科正益(飯野藩第10代目藩主)の長女。伯爵加藤高明(元内閣総理大臣)は義理の伯父(妻が久弥の姉)、元京都府知事の木内重四郎(元京都府知事・貴族院議員)と男爵幣原喜重郎(元内閣総理大臣)は義理の叔父(ともに妻が久弥の妹)であった。

1.名づけの命名式
母親は年子で3人の男子を産んだので、明治34年(1901)9月19日、また男の子だったらいう心配を吹き飛ばすように産声をあげたのが私だった。いよいよ七日目の命名式の夜になりました。うちの家庭で、その子にあやからせたいと思う人に抱いてもらって、その命名式の宴席に出てくるのです。兄たちはみんな丈夫に育つようにと、出入りの父のひいきの力士が抱いてきたそうです。なんの行き違いか、私の命名式の夜、大広間の宴の席に赤い産着をきた男性的な顔つきの私を抱いて現れたのは、当時の横綱・梅ケ谷その人だったのでした。そこにいた築地のひさご屋の女将おとりが大きな声で「あれまぁ、これはおじょうさまでしょうに」といって驚いたということです。
 その夜の名付け親は大叔父の岩崎弥之助、その名の「美喜」は、大祖母美和の「美」と祖母の「喜勢」の「喜」の一字ずつとって名付けられました。

2.家憲が行動規範―ご先祖様―
祖母はよく「ご先祖様」という言葉を使いましたが、私ども岩崎家の者にとって「ご先祖様」は火のような力を持っていたのです。兄たち3人が外国に留学するときも、出発直前に父が仏間に集めて、そこでいった言葉は「いつもご先祖様の名を考えて行動することだ。すべてはただこの一言に尽きる・・・」という短いものだったことを覚えています。出生も入学も婚約も、喜びはまず先祖の墓に駆けつけて報告するという習慣は、私どもの中にいまでもあります。

3.結婚の決心
私が華族を嫌ったのは、祖先の光と地位をそれにふさわしくない子孫たちが、かさにきてそっくり返っているのがたまらなく嫌なのでした。いくつもの華族との縁談を断ったため、両親は私に似合った話を持ち込んでくれた。
父は「かねてお前の考えているように外交官夫人として外国に行くことも可能だし、もう一つ、お前はおばあさんに言われて、そのまま黙っているけれど、キリスト教に入ろうと内心まだ考えているのだろう。沢田君は外交官でクリスチャンだし、お前の求めている宗教にも入ることができるだろう」といわれた。私は本当のこと言って、外国に行くこととクリスチャンになるチャンスに恵まれるという2つのことが、私に結婚の決心をさせたのです。

4.天の啓示―英国の孤児院―
ある日曜日の礼拝のあと、セルウィン司祭が一人の老夫人を紹介してくれました。その夫人が孤児院に連れて行ってくれました。私は神からのおぼし召しを感じたのです。私の余生をささげる仕事を見出したのです。
 日本で見る孤児院とはあらゆる暗さとみじめさを思わせるものですのに、ここはまぁ、何と明るい希望の家でしょう。一人も暗い顔をしている子供はいません。古い着物でも、小ざっぱりと清潔なものを身に着けています。ボタン一つ落ちていないし、みんなキチンとはめられていました。
 園の中央の礼拝堂から美しい讃美歌のメロディが流れてきます。その声の清らかさ、孤児特有の悲惨なものは一つも感じられませんでした。中学校あり、教会あり、職業補導の教室あり、工場あり、ここを法の定めによって18歳で去る時は、その翌日から職に就くだけの技能を持たされ、それまでに働いた預金をしっかり胸に抱きしめて出ていく青年も見ました。私はこの日、この仕事に神から召されたように覚えました。そして心に堅く誓いました。将来私が選ばれてこの仕事に入ることが許されたら、必ず日本にこの明るい子供のホームを延長させようと。

美女と才女
沢田美喜
さわだ みき

沢田 美喜
生誕 1901年9月19日
日本の旗 日本東京府東京市本郷区(現・東京都文京区
死没 (1980-05-12) 1980年5月12日(78歳没)
スペインの旗 スペインマヨルカ島
死因 心臓発作
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京女子高等師範学校附属高等女学校中退
職業 社会事業家
配偶者 沢田廉三
子供 長男・信一
次男・久雄
三男・晃
長女・恵美子
岩崎久弥(父)
寧子(母)
親戚 保科正徳(高祖父)
岩崎弥次郎(曾祖父)
岩崎美和(曾祖母)
保科正丕(曾祖父)
岩崎弥太郎(祖父)
岩崎喜勢(祖母)
保科正益(祖父)
岩崎彦弥太(兄)
岩崎隆弥(兄)
岩崎弥之助(大叔父)
加藤高明(義伯父)
木内重四郎(義叔父)
幣原喜重郎(義叔父)
保科正昭(叔父)
岩崎寛弥(甥)
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沢田 美喜(さわだ みき、1901年明治34年〉9月19日[1][2] - 1980年昭和55年〉5月12日[3])は、日本の社会事業家。本名︰澤田 美喜(読みは同じ)。

  1. ^ 『黒い肌と白い心』、創樹社版、3頁。
  2. ^ 『黒い肌と白い心』、創樹社版、327頁。
  3. ^ 『黒い肌と白い心』、創樹社版、342頁。
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