池田謙蔵 いけだ けんぞう

金融

掲載時肩書三菱信託相談役
掲載期間1973/03/03〜1973/03/28
出身地奈良県吉野
生年月日1893/02/02
掲載回数26 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社三菱合資
配偶者尾上兄推薦娘
主な仕事査業部、北樺太鉱業、三菱信託「貸付信託法」、府中競馬場、福徳金銭信託、銀行業務兼信託銀行、年金信託
恩師・恩人尾上登太郎、山室宗文、GHQビープラット
人脈倉田百三・菊池寛・秦豊吉・星野直樹(一高)高杉晋一・岡野保次郎(同期入社)奥村政雄
備考代々庄屋・代官
論評

明治26年(1893)2月2日~昭和49年(1974)7月17日、奈良県生まれ。実業家。三菱信託銀行社長。
東大卒業後。三菱合資会社に入社し、15年後に三菱信託会社に転出、信託法、信託業法に携わり、三菱信託銀行の中興の祖といわれる。

1.倉田百三と菊池寛、両君の思い出
私は明治43年(1910)一高に入学した。一高は明治23年ごろから全寮制だったので、寮の夜は10時で消灯だった。この消灯後も勉強するなら、自分でロウソクを買い込んでその灯りでやるしかない。これを毎晩やり続けている男がいる。おとなしくてハンサムで、見るからに善良そうな坊ちゃん育ちの人物である。これが倉田君だった。この生真面目な彼が、吉原通いをしたのであった。それを黙っていればいいものを、根が正直な倉田君は友人に喋ってしまった。それだけならまだしも、その話を一高の校友会雑誌に書いた。
「私は非常識にも色街の女に人格的な恋を求めに行った。・・・あの艶々しい黒髪としなやかな白い肌、その美しい肉体の中に、どうしてこんな下劣な魂が宿ってるのであろうかと不思議でならなかった」。
 その後、倉田君は病を得て中退し、広島の病院に入院中、看護婦と恋に落ち、私は彼女と一緒になればいいのにと思っていたら、そのうち今度はどこかのカフェー通いを始め、そこの女給さんと仲良くなったなど、私に届く風の便りは、次から次と女性問題ばかりだった。大正5年(1916)、彼は25歳で戯曲「出家と弟子」を書き上げているが、一高時代の女性遍歴や青春の苦悩が、この作品の横糸になっていると思う。
 もう一人、変わり者が記憶にある。「きたない男だ!」の感の男で、私は同室ではなかったが、ストームの時、みんなの頭の方に足を向け、逆さになって寝ていたとか聞いた。靴を脱がずに眠れるという不精者が学生時代の菊池寛君である。菊池君は家が貧しかったためであろうが、バンカラの典型だった。彼があれほど大成し、有名になるとは、当時、私には想像もできなかった。

2.戦後急膨張のインフレ実態
昭和21年(1946)2月17日、政府は金融緊急措置令を発し、全ての預金を一時的に封鎖してしまい、流通中の日銀券は一人百円を限って強制的に新円と交換させ、それ以外は3月7日以降、流通禁止とした。これで日銀券発行残高は3月12日には152億円まで収縮したが、12月末には933億円と急膨張を遂げ、インフレはとどまるところを知らぬ有様であった。おまけに、信託会社が戦時中に多額の融資をしていた資金統合銀行がGHQから閉鎖機関に指定されてしまい、同行への貸付金についても利払いも一時的に停止され、どこの信託会社も金銭信託の収益配当の捻出に四苦八苦の状態であった。

3.信託銀行の銀行業務兼営化へ
この銀行業務兼営の希望は信託業法制定当時からの念願だったが、当局からこれを禁止されてきた。そこで戦後は占領下であったから、大蔵省、日銀の許可の他に、GHQがウンと言ってくれねばどうにもならぬと考え、私は各信託会社と連絡を取りつつ、GHQとのひざ詰め談判を進めていた。担当官のトリスタン・ビープラット氏は、「米国の信託は大半銀行業務を兼営しており、信託部門の収益性は低く、銀行部門の収入が多い」と理解を示してくれた。そして日本経済の将来についても私と意見が一致した。
 こんな中で23年(1948)1月、政府はGHQの意を汲んで、証券取引法の全面的改正に乗り出した。この後、いろいろと政府とやり取りはあったが、信託会社の銀行業務兼営は23年6月30日付けをもって認可された。当時GHQ指令で財閥商号の使用が禁止されていたので、2か月後、当社は「朝日信託銀行株式会社」と社名を変えて、再出発の途についた。

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