掲載時肩書 | 探偵作家 |
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掲載期間 | 1956/05/03〜1956/05/10 |
出身地 | 三重県 |
生年月日 | 1894/10/21 |
掲載回数 | 8 回 |
執筆時年齢 | 62 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早稲田予科 |
入社 | 南洋貿易 商社 |
配偶者 | 鳥羽時代の娘 |
主な仕事 | 職業20種、転居40回、休筆17年、三文オペラ後援会、 随筆探偵小説、江戸川乱歩賞 |
恩師・恩人 | 川崎克 |
人脈 | ポー・谷崎潤一郎・ドストエフスキー(に感銘)、田谷力三、森下雨村、 |
備考 | 日本最初の探偵小説 |
1894年〈明治27年〉10月21日 – 1965年〈昭和40年〉7月28日)は三重県生まれ。小説家、推理作家。大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、戦後は推理小説専門の評論家としても健筆を揮った。実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所に勤務していた経歴を持つ。ペンネーム(江戸川乱歩)は小説家の、エドガー・アラン・ポーに由来する。乱歩は海外作品に通じ、翻案性の高い作品として『緑衣の鬼』、『三角館の恐怖』、『幽鬼の塔』などを残している。また、少年向けとして、明智小五郎と小林少年や少年探偵団が活躍する『怪人二十面相』などがある。このほか、探偵小説に関する評論(『幻影城』など)を残している。戦後も乱歩は主に評論家、プロデューサーとして活動するかたわら、探偵小説誌『宝石』の編集・経営に携わった。また、日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力した。
1.学歴・・図書館卒業
明治45年(1912)の夏、早稲田大学予科の編入試験を受けて入学し、大学部は政治経済科を選び、経済学の方を選んだ。アルバイトとしては、最初は湯島天神町の小さな活版屋の小僧、次は写字生、やがて同郷の政治家川崎克先生(前厚生大臣川崎秀二君の父君)を知り、先生が出しておられた政治雑誌の番人をやったり、証券業者の子供さんの英語の家庭教師を勤めたりした。
そういうわけで、学生生活の愉しさをほとんど知らないで終わった。小遣いがないので、図書館で本を読むのが唯一の楽しみだった。大学の図書館のほかに、上野、日比谷、大橋などの図書館へよく通った。教室へはあまり出ず、経済学の本なども図書館で読んだ。「図書館卒業」の口である。学問の本のほかに、そのころエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイルなどの英語探偵小説を耽読した。
2.探偵小説家への思い
大正5年(1916)、数え年23歳の夏、早稲田を卒業したが、卒業間際になって私はアメリカ渡航の夢を見ていた。アメリカで皿洗いのアルバイトをしながら、英文を書く勉強をして、アメリカで探偵作家になりたいと考えたのだ。そのころ日本には探偵雑誌一つなく探偵小説なんて全く問題にされていなかったし、当時のアメリカの探偵雑誌に載る作品は、くだらないものばかりで、私ならあれ以上のを書くという自信みたいなものがあったからだ。しかし、当時アメリカへ渡航するには、船賃のほかに、多額の「見せ金」というものが必要だったので、この工面がつかず、これは単なる夢に終わってしまった。
しかし、探偵小説の職業作家になった大正14年(1925)の始めまでの8年間に、14,5のいろいろな職業を転々とした。学生時代のアルバイトを加えると、20種に近い職業を経験したことになる。
3.日本最初の探偵小説と実績
大正11年(1922)の夏から秋にかけて、半年ほど父の家でブラブラしていた。その頃はもう子供ができていて、親子3人で貧乏な父の家に転がり込んだのだから、実に居づらかった。その所在なさを紛らすために、ミカン箱を机にして、短い探偵小説を2つ書き、これを「新青年」主幹の森下雨村さんに送った。
送ったのは「二銭銅貨」と「一枚の切符」だったが、森下さんの気に入り、日本にも外国作家に負けない探偵小説家が現れたという提灯記事と共に、大正12年(1923)4月号に、まず「二銭銅貨」が掲載され、2,3月後の号に「一枚の切符」も載った。今の目で見れば、つまらない作品だが、誰も探偵小説を書いていなかった時代に先鞭をつけたのが、のちのちまでも非常に私に幸いしたのである。
大正14年(1925)に専業作家になってから現在まで満31年余だが、そのうち17年休筆していたのだから、正味14年余りしか働いていない勘定になる。書いているより休んでいる方が多かったのである。戦後に書いたものを含めて、長編22、中、短編46,少年もの長編12,短編1つ、随筆評論が本にして8冊分、全体を概算すると、400字原稿用紙2万枚足らずなのである。
江戸川 乱歩 (えどがわ らんぽ) | |
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ペンネーム | 江戸川 乱歩 小松 龍之介 |
誕生 | 平井 太郎 1894年10月21日 日本・三重県名賀郡名張町(現在の名張市) |
死没 | 1965年7月28日(70歳没) 日本・東京都豊島区池袋 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 早稲田大学大学部政治経済学科 |
活動期間 | 1923年 - 1965年 |
主題 | 推理小説、怪奇・恐怖小説[※ 1] |
代表作 | 『D坂の殺人事件』(1925年) 『陰獣』(1928年) 『孤島の鬼』(1930年) 『黒蜥蜴』(1934年) 『怪人二十面相』(1936年) 『幻影城』(1951年、評論) 『探偵小説四十年』(1961年、自伝) |
主な受賞歴 | 紫綬褒章(1961年) 勲三等瑞宝章(1965年) |
デビュー作 | 『二銭銅貨』(1923年) |
子供 | 平井隆太郎 |
親族 | 平井蒼太 (次弟) 平井憲太郎(孫) 松村喜雄(従妹の息子) |
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江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、本名:平井 太郎〈ひらい たろう〉[1]、1894年〈明治27年〉10月21日 - 1965年〈昭和40年〉7月28日)は、日本の推理作家、怪奇・恐怖小説家[※ 1]、アンソロジスト[※ 2]。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。ペンネームの由来は、小説家のエドガー・アラン・ポー[2][※ 3]のもじり。
大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。
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