掲載時肩書 | 美津濃社長 |
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掲載期間 | 1987/03/01〜1987/03/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1913/10/07 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 大阪大学 |
学歴その他 | 甲南高 |
入社 | 大日電線(古河電工子会社) |
配偶者 | 忠兵衛縁者 |
主な仕事 | 野球、ゴルフ、スキースポーツ振興財団、国際スポーツ交流財団、ミズノ・コンサート |
恩師・恩人 | 伊藤忠兵衛・佐伯達夫(父友)、仁田勇教授 |
人脈 | 秩父宮、猪谷千春、宮本留吉、杉原輝男、伊藤昌寿、稲盛和夫、高田繁 |
備考 | 父:スポーツ振興、趣味・天体望遠鏡 |
大正2年(1913)10月7日―平成11年〈1999〉4月15日)大阪生まれ。実業家。父が創立した美津濃(現ミズノ)に昭和17年取締役としてはいり,44年社長,63年会長。世界にさきがけて炭素繊維をゴルフクラブに採用するなど商品開発に力をいれ,海外の営業・生産拠点づくりをすすめ,同社を有数のスポーツ用品メーカーにそだてた。
1.秩父宮殿下のスキー製品へのご下問
美津濃がスキーの製造を始めたきっかけは、秩父宮殿下の一言だった。欧米のスキー術が導入されたのは明治44年(1911)に陸軍、大正5年(1916)に札幌農学校(現北海道大学)においてである。スポーツ用品すべてを取り扱うことを念願にしていた父は、大正9年(1920)に、スエーデンのサンドストラム社と輸入代理店契約を結んで販売を始めた。12年に宮内庁ご用達だった美津濃から、秩父宮さまがスキーをお求めになり、松井繁雄東京支配人(のち専務)が、サンド社からの輸入品を献上したところ、「なぜ、これくらいのものが国産化できないのか」とご下問があった。これを聞いた父は、恐懼、感激して直ちに製造に着手した。
2.猪谷千春選手とスキー板改良
アルペン競技の天才少年、猪谷千春選手の力強い滑りを見たのは、昭和26年(1951)であった。大学の選手より速かった。そして翌年のオスロ・オリンピックに出場が決まった。東京・数寄屋橋で、叔父が父と別れて運動具店を経営していた。そこで、米国のAIU社長でスキー場のオーナーでもあったスター氏が猪谷選手を見かけ「いい成績をあげるには、早めに現地に行った方がいい。資金は出してあげる」という。米国人らしいおおらかさに感心した。
猪谷選手は日本選手団より一足先にサンアントンに出発し、十分なトレーニングを積んだのち、オスロに行った。この時の練習で猪谷選手は、国産スキーでは傾斜面でスピードが出ないことを知り、最も有名だったケスレー社のスキーを求めて出場した。回転と滑走の総合点を争う新複合で11位だった。
猪谷選手の役に立てなかった国産スキーのふがいなさを知って、私は技術研究部長として招いた阪大同級生の平山晋一君らとともに、スキーの材質、構造の研究に着手した。
われわれの研究結果、単板スキーでは狂いが生じやすく、また木材特有の節や目切れによる欠点が現れる。そこで合板スキーを開発した。七層の部材を重ね合わせ、各層の板を薄くした。LAMINAR、即ち薄板をもじって、「ラミ・スキー」と名付け売り出した。27年〈1952〉のことである。この頃はまだ国産材が中心で、ヒッコリーを使ったのは相当な高級品だった。なお、31年(1956)のコルチナダンペッツォのオリンピックに出場した猪谷選手は、日本で初めての銀メダルを獲得した。
3.炭素(カーボン)繊維をスポ-ツ用品に
東レの研究開発担当取締役が私を訪ねてきた。伊藤昌寿現社長である。「わが社が開発した炭素繊維を使えば、優れたスポーツ用品ができると思います」。同席していた林敬次郎研究開発部長(現常務)が「その通りです。研究しましょう」と意気込んでいる。私も大学時代に炭素繊維を解明しようとしたぐらいだから、「面白そうだ。やりましょう」と答えた。昭和46年(1971)のことである。
林君を中心に、ゴルフシャフト、野球バットやスキー板、テニスラケットなどに使う方法を研究した。東レの炭素繊維をシャフトに使うのは、のちのことになるが、ブラックシャフトではアメリカから「カーボナイト」を輸入し、48年に「ミズノプロ」と名づけて発売した。だが、この時点ではまだ「飛びの理論」を確立したとは言えない。ボールをより遠くに飛ばすためには、この初速度、飛び出し角、バックスピンを十分研究しなければならない。こうして弾道理論、衝突理論などを追求した。静止したボールに最も効率よくエネルギーを伝えることが良いのは分かっている。その場合どのような素材が良いか、私たちの研究はなおも続いた。
4.高校野球の育ての親、佐伯達夫さんの思い出
佐伯さんは昭和55年(1980)に87歳で亡くなられた。明治26年〈1893〉生まれの佐伯さんは、子供のころから野球の虫だった。大阪・市岡中学でもひたすら、野球に打ち込んでいた。美津濃の前身の「水野兄弟商会」の店によく来られた。セーターや野球用具を買い求めるうち、若き店主、水野利八と意気投合したらしい。この出会いがなければ、父は野球を手始めにスポーツ産業の道を、まっしぐらに歩んだかどうか分からない。だから美津濃の大恩人である。
野球一筋の佐伯さんは、父に野球だけでなく、バットやグラブをどう改良すれば使い易くなるか、ということも話しておられた。父はそれを聞いて用具の改良に努めた。美津濃は現在、ほとんどのスポーツで、さまざまな意見を聞くアドバイザリー・スタッフをプロの方にお願いしている。佐伯さんはその先駆者といえた。
父は佐伯さんに、明治44年〈1911〉の大阪実業団野球大会の開催に次いで、「今度は中学校の大会をやりましょう」と持ちかけた。佐伯さんも賛成し、精力的に動いて有力校の参加を取り付けていただいた。大正2年(1913)8月、関西学生連合野球大会が新設の豊中グラウンドで開かれた。府県のワクを乗り越えた大会が開催されたのは、これが初めてである。
この企画に着目した朝日新聞が、大正4年〈1915〉に全国規模でやりたいと父に申し入れた。父は「新聞社がやられる方がいいでしょう」と答えた。こうして全国中等学校優勝野球大会が始まり、球児の憧れである夏の甲子園大会の母体となった。