掲載時肩書 | 日本ガイシ特別顧問 |
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掲載期間 | 2017/07/01〜2017/07/31 |
出身地 | 愛知県名古屋 |
生年月日 | 1937/02/21 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 名古屋大学 |
学歴その他 | 桜台高 |
入社 | 日本ガイシ |
配偶者 | 見合い |
主な仕事 | NY(7年目)、GE交渉、水処理、排ガス、 |
恩師・恩人 | 新海亨 |
人脈 | 森村G(5:TOTO,INAX、ノリタケ、ガイシ、特殊陶業) |
備考 | 囲碁3段 |
氏は、この「履歴書」に登場した日本ガイシの竹見淳一(H6年6月掲載)に次いで2人目である。竹見は次ように書いている。昭和42年(1967)、日本ガイシは名古屋で創業して75年が経っていた。しかし、森村グループ各社(ノリタケチャイナ、TOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業)は、もともと東京の持ち株会社、森村組の支配下にあったため、名古屋ではヨソ者とみられていた。地縁、血縁が濃い5摂家(中部電力、東海銀行、名古屋鉄道、松坂屋、東邦ガス)には製造業は入っていなかったが、中京テレビを日経と連携して発足させたことで、仲間入りを果たした。
芸は身を助く:氏は小学校4年生のときから、囲碁に夢中になり、大学時代も囲碁部に籍を置き、リーダーとして全国大会にも出場していた。プロ棋士の指導も受け、卒業祝いにアマ3段の免状も取得した。これが幸いして日本ガイシの入社面接試験で「生意気だが、吉本社長の囲碁相手として採用」されたと謙遜する。そして入社7年目の1962年に開設されたばかりのNY拠点に赴任した。英語も十分に話せなかったが、中華街の囲碁クラブで現地の有名人と囲碁の取り持つ縁で英語もうまくなり、仲間になることができた。その一人がベル研究所のノーベル賞受賞者のフィリップ・アンダーソンで、親しくなるにつれベル研究所に呼ばれ、取り組んでいるテーマを教えてくれるようになる。情報通信のあり方を根底から変える「光ファイバー」の存在もここで知り、事業の将来を考えることができた。
経営の使命とは:1981年にGEのトップになったジャック・ウエルチ(45歳)と日本ガイシの子会社の代表として柴田は対立する。「3年以内に世界でNO1~NO2になる事業計画を持ってこい」とのウエルチに対して、柴田は猛反発する。最終決着は、GEの40%持ち分や工場・設備をタダで引き取り、合弁を解消した。ウエルチの異名は「ニュートロン・ジャック」(建物を壊さないで人を殺す)だった。このときの教訓は「選択と集中」だったが、この後、神風が吹き、高電圧ガイシが大型受注に成功する。このとき社員にボーナスを大判振る舞いしたが、社員と一緒に汗を流し「成功体験」を味わせることが「経営の使命」だと実感した。
柴田 昌治(しばた まさはる、1937年2月21日 - )は、日本ガイシ元代表取締役会長。グレーター・ナゴヤ・イニシアティブ協議会会長。元日本経済団体連合会副会長。一般財団法人日本ガイシ留学生基金評議会議長[1]。