掲載時肩書 | 落語家 |
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掲載期間 | 1984/02/01〜1984/03/01 |
出身地 | 長野県 |
生年月日 | 1915/01/02 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 商業高校 |
学歴その他 | |
入社 | 弁護士 事務所 |
配偶者 | 姉御・ 押掛け |
主な仕事 | 話好き、剣道3段、2・26事件、桂文楽 師匠(小さん襲名)、剣道場、真打に試験制、 |
恩師・恩人 | 4代目 小さん、桂文楽 |
人脈 | 志ん生、馬楽、桂三木助(義兄弟)、金語楼、円生、立川談志、小金治、ラジオ、剣道道場、テレビ出演、 |
備考 | あだ名:狸 |
1915年1月2日 – 2002年5月16日)は長野県生まれ。落語家、剣道家、俳優。1995年、落語家として初の人間国宝に認定された。剣道の段位は範士七段。性格は非常に穏やかなもので、真打昇進の制度を作ったのも「落語家の生活がよくなるように」 という願いからであった。弟子が居ない時は一人で掃除や洗濯をするなど苦労を惜しまない性格で、大御所でありながらも、情にもろく、周囲の意見をよく聞いた。
1.子供時代から喋るのが好き
小さい時から喋ることは好きだった。子供たちを近所の原っぱに集めて、ムシロを敷いて座らせ、私が喋ったりもした。おとぎ話とか、文庫本になっていた岩見重太郎、塚原卜伝なんかの話を聞かせて、途中で「もう、油が切れたから、みんなうちにへ行って油を持ってこい」というんで、菓子を持って来させたりした。
小学校でも暴れてばかりいるものだから、先生が受け持ちを嫌がってタライ回しになった。そのうち女の遠藤先生が、「小林さん、あんた一体何が好きなの」って聞くから「自分で喋るのが好きだ」と言うと、「それではお話の時間を1時間こさえてやるからおとなしくしなさい」ということになった。子供たちは私が喋るのを聞いて喜ぶし、評判は良かった。他の教室からも「こっちも来て」と誘われ、かけ持ちで歩いた。
2.二・二六事件のさ中に一席
1936年、大日本帝国陸軍歩兵第3連隊に徴兵され、二等兵となる。同年2月26日に起こった二・二六事件では、反乱部隊の機関銃兵として警視庁占拠に出動した。私や同僚兵士は事前にまったくクーデター計画を知らされず、当日出動命令を受けて支給された弾薬が実弾だったことから「あれ、今日は、演習じゃねえんだな」と思った。反乱部隊の屯所に詰めていたが、知らぬうちに自分たちが反乱軍に参加していると知った。腹もすいて、みんな黙りこくっている。意気阻喪気味の兵士を見た指揮官から「士気高揚に一席やれ」と命令された。持ちネタの『子ほめ』を演じたが、「えらいことしちゃった」と悄然としている兵士たちに「ええ、お笑いを一席」と言っても、笑うわけがない。
3.真打昇進に試験制度をとり入れ
真打というのは、完成した芸の持ち主がなるわけじゃない。「これならどうにかなるだろう」というのが真打になるので、昔からそうだった。私が小さんになるときでも、円生さんが「小さんはまだ早い」と言ったら、文楽師匠が「あなただってそうだ。周りで円生になるのは早いと言われていた。同じだよ」と言った。みんな先代の名を継ぐのは早い。それでも徐々に勉強していって、どうにか形がついてくるものだ。
そんなわけで、昭和55年(1980)11月に第1回の試験をしたが、この時は16人中11人が合格した。幹部の師匠の前で一席やらせて合格、不合格を決めるのだが、あまり不合格は出ない。少し厳しくしようというので昨年5月の試験では、10人中6人を不合格にした。この試験で談志の弟子が落ちたのがきっかけで、今度は談志が弟子を連れて落語協会を脱退してしまった。
4.立川談志
彼は内弟子ではなく通いだったが、冬、マスクをして手袋をはめて、襟巻をして、ポケットに手を突っ込んだまま入って来て、そのまま片手にほうきを持って掃除をしている。かみさんから「バカ野郎」と怒鳴られていた。そして、「おれは掃除に来たわけじゃない。噺家だから噺の稽古をしてもらいたい」なんて言う奴だ。
談志は落語協会をやめて落語の家元になるというから、何でも勝手にやれといった。ただ師弟の縁だけは残してくれというから、それはいいだろうと答えたが、その後も、「売れないやつの手助けなんかしたくない」とか、喋ることが的外れだし、考え方がおかしいので破門にした。政治家になったり、家元になるとか、どっちにしても話題の多いヤツだった。