林原健 はやしばら けん

化学

掲載時肩書林原社長
掲載期間2003/06/01〜2003/06/30
出身地岡山県
生年月日1942/01/12
掲載回数29 回
執筆時年齢61 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶応
入社林原
配偶者三輪製粉 次女
主な仕事カバヤキャラメル、19歳社長、インターフェロン、メセナ大賞、美術館、ダライ・ラマ14世招聘、チンパンジー
恩師
人脈児玉誉士夫、井深大、大塚明夫、ダライラマ
備考空手、約束 を守る
追悼

氏は‘20年10月13日、78歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’03年6月の61歳のときでした。’03年当時でも経済人がこの「履歴書」に登場するのは70~80歳代の人が多い中で、氏の61歳登場には少し驚きを感じたものでした。
当時は地方の時代と叫ばれ、大企業だけでなく地方の優良企業経営者に光をあてようとしていたのでした。実際よむと、父親の急死で慶応大学2年のときに社長に就任し、42年間で岡山・林原グループを製糸業やホテルを含め、18社・2法人(林原美術館など)で構成、従業員は約1500人に成長させていました。
中核の林原本体は、主にデンプンから食品向けの糖化製品を生産、世界で独自の地位を得ていました。特に抗がん剤「インターフェロン」などの医薬品を手掛け、バイオ企業ともいわれた優良企業でした。印象に残る記述は次のとおりです。

*社会貢献(ラマ教経典資料の整理保存)・・ダライ・ラマ14世を招聘
1994年ごろ知人からダライ・ラマ14世を招聘する仕事の要請が来た。理由は、私がチベットと浅からぬ縁があったからだ。チベット仏教に関心があった私は、当時チベット経典を収集していた。59年に法王がインドに亡命、ポタラ宮殿に残された大部分は、ネパールの資産家の手を経て日本に入ってきていた。散逸を恐れた人の依頼で私どもがひきうけていたのだった。
 経典というが、仏教だけでなく医学、科学から歴史、民俗などチベットの知識を集大成した百科事典のようなものだ。経典の形は様々である。大きな短冊状の紙が数十枚で1巻、経典を刻印した純金の薄い延べ板十数枚で1巻というものもある。いまはこれが1500巻ほど集まっている。
 私はこれを翻訳、系統立てて整理したいと思っていた。将来、チベット史編纂の貴重な資料になるし、人類の知恵として役立つ形で使えると思っていた。法王にお目にかかて、こんな話もしたいとの気持ちが強くなり、計画の実現に動いた。

95年3月、法王は無事に日本に到着された。報道陣との対応にも、その見識と大きな心で見事な対応を見せられた。岡山では私どもの研究所も見学された。科学に対しても並々ならぬ知識と興味を持っておられた。公式の場を離れると、まるでガキ大将がそのまま大人になったような無邪気な一面を持っておられた。
 お目にかかって私は、「日々、人間が行う修業とは」と訊ねた。答えは簡単明瞭だった。「自分のしたいことが、自分の知らぬうちに人の役に立っている形になるまで修行しなさい」と。この言葉を私は紙に書いていただいている。
 チベット経典が流出したことには、「世界の人々にチベットを知ってもらえる良い機会になれば」とおっしゃった。この縁で、経典翻訳、整理のため優秀な僧侶を派遣していただくことになった。

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