掲載時肩書 | 衆議院議員 |
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掲載期間 | 1968/09/29〜1968/10/25 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1888/02/02 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 米国ニューヨーク大学 |
学歴その他 | 米国商業学校 |
入社 | 米国農園 |
配偶者 | 津田塾娘(英語で承諾) |
主な仕事 | 14歳渡米、各種雑役、NY、渡欧、26歳帰国、社会事業、再渡米、衆議員、日本自由党(鳩山)、郵政相、文相 |
恩師・恩人 | 大森安仁子夫人、松原喜之次 |
人脈 | 安部磯雄、尾崎行雄、野口英世43歳、三木武吉、斎藤隆夫演説、鳩山派(河野一郎、山村新次郎、中村梅吉ら) |
備考 | 12年間の米国若修行 |
明治21年〈1888年〉2月2日 – 昭和55年〈1980年〉12月1日)は大阪府生まれ。男性政治家。14歳の時にアメリカ西部の荒野を夢見て単身渡米、各地を放浪した果てにニューヨーク大学に入学。明治44年(1911年)に同大卒業後、大正3年(1914年)に帰国、日本の近代スポーツの先駆者・大森兵蔵の妻・安仁子(旧名・Annie Shepley、日本に帰化し安仁子と名乗る)の運営する社会福祉施設・有隣園を手伝う。有隣園での経験を経て、社会事業家となる。衆議院議長、文部大臣、郵政大臣を歴任した。
1.米国田舎流・ニワトリ料法
14歳で渡米しイリノイ州のホテルでコックを探していたので応募した。ここの生活で印象に残っているのはブラウン夫人の鶏の殺し方である。夫人は左右の手で一羽ずつの鶏の首をひっつかみ、ものすごい勢いでブルンブルンと振り回す。すると5,6m先に首なしの鶏が血しぶきを上げながらすっ飛んでいくのである。夫人がお前もやれと言うので、目をつぶってやってみたが、馴れるまで後味の良くないことおびただしい。
2.ニューヨークで富豪カーネギー翁に招かれる
明治43年(1910)、私はニューヨーク大学の商科夜間部へ通うことになった。しかし私は昼間の仕事の関係で欠席が多く、3年間も在籍しながら大して得るところはなかった。ただ討論会のクラス選手に選ばれて活躍したこと、会社、工場、新聞社などを見学する機会に恵まれたことなどが良い思い出として残っている。
このころ忘れられないのは米国第一の富豪カーネギー翁から招待されたことである。招かれたのはインド、フィリピン、中国、朝鮮、日本の大学生5人であった。翁は地下の穴倉のような書斎に自ら案内し、マントルピースの上部に書いてある金文字を指した。翁は「私の今日あるのはベーコン卿のこの文字のお蔭である」と説明したが、その文句の大意は「物の道理を知らぬ者は馬鹿である。知ってなおこれを行わない奴は度し難い大馬鹿である」ということだった。
3.社会事業に励む
大正3年(1914)3月5日、12年ぶりに日本の土を踏んだ。26歳だった。たまたまある日、神田のYMCAで児童問題講演会があり、主宰者の大森安仁子夫人と知り合いになった。夫人はアニー・セプリー・サージャントという米人で、晩年には「更級日記」の英訳を出したほどの知日家であった。彼女は体育学者で社会事業家でもあった大森兵蔵氏と結婚したが、大森氏の死後、その遺志を継いで有燐園を経営していた。私は彼女の勧めに従って新宿淀橋の成子天神裏にあった有燐園の手伝いをすることにした。ここの事業は今でいうと幼稚園、保育園、ボーイスカウト、ガールスカウト、セツルメントを兼ねたような児童教育である。
私はここで子供たちに「宝島」のお話をしてやったり、暇を見ては各界の識者を訪問して東京市内各地に児童遊園を作るように説いてまわったりした。その結果、菊池大蔵男爵を会長とする東京児童遊園協会の設立にこぎつけるなどかなりの成果があった。
4.海軍トップとの午餐かい(海軍政務次官時代)
昭和7年(1932)、衆議員にカムバックした。2年生議員の私に海軍政務次官役が与えられた。政務次官の仕事は、海軍施設の視察と午餐かいの出席である。午餐かいは毎日省内で開かれたが、こちらは軍令部総長だった伏見宮殿下と話をする好機でもあった。会の席順は筆頭第一号に伏見宮軍令部長、ついで米内光政海相、政務次官の私、山本五十六事務次官の順である。その他、艦船本部長、技術部長の各中将、参与官と同席するのだが、みな行儀よく、私のような野人はいない。黙々として食事する。そこで私は、「殿下、広東のオンチョイという菜っ葉はご存知ですか」といった調子でゲテモノ食いのバカ話をするのを例とした。殿下は面白がってくれたが、山本次官は「政務次官、まだ視察していないところはありませんか」と午餐かいから私を遠ざけたい口ぶりがしばしばあった。
松田 竹千代 まつだ たけちよ | |
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文部大臣就任に際して公表された画像 | |
生年月日 | 1888年2月2日 |
出生地 | 日本 大阪府泉南郡 |
没年月日 | 1980年12月1日(92歳没) |
出身校 | ニューヨーク大学 |
所属政党 | (立憲民政党→) (日本進歩党→) (自由党→) (分党派自由党→) (日本自由党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 | 正三位勲一等 |
第55代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1969年7月16日 - 1969年12月2日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第79代 文部大臣 | |
内閣 | 第2次岸改造内閣 |
在任期間 | 1959年6月18日 - 1960年7月19日 |
第7代 郵政大臣 | |
内閣 | 第2次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1955年3月19日 - 1955年11月22日 |
選挙区 | 大阪府第5区 |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1928年2月20日 - 1972年12月9日 |
松田 竹千代(まつだ たけちよ、明治21年〈1888年〉2月2日 - 昭和55年〈1980年〉12月1日)は、日本の男性政治家。衆議院議長、文部大臣、郵政大臣を歴任した。正三位勲一等。