掲載時肩書 | 立大総長 |
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掲載期間 | 1962/04/16〜1962/05/11 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1901/04/14 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 61 歳 |
最終学歴 | 立教大学 |
学歴その他 | 米国コロンビア大学 |
入社 | 中学教師 |
配偶者 | 元田学長の 娘ミツ |
主な仕事 | 立教大、外政協会、東條の弁護、弁護士、立教総長、原子炉入手、首相特使、核実験反対 |
恩師・恩人 | 元田作之進 立教学長、H・L・メンケン |
人脈 | 原田鋼、有田八郎、清瀬一郎、石橋湛山、西園寺正雄、市川房枝、清瀬一郎 |
備考 | 父親牧師 |
1901年4月14日 – 1986年12月24日)は京都生まれ。政治家、国際政治学者、弁護士。1929年、28歳で母校である立教大学教授に着任する。第二次世界大戦中は、高木惣吉の提唱により設置された大日本帝国海軍軍務局調査課のブレーンを務め、各種研究会に所属していた。戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)では日本側の弁護人を務める。1948年弁護士開業。1955年、立教大学総長に就任し、在任中は法学部の設立に尽力する。参議院議員(1期)を歴任した。
1.東洋人学生会議と結婚
1926年(昭和1)の夏から1928年の夏まで、夏季休暇には必ずシカゴ近くにあるラシーン市のテーラー・ホテルで過ごした。ここで夏季2週間「東洋人学生会議」が開かれた。私がその会議に出席したのは会議自体に関心があったのと元田ミツに会うためだった。
会議は相当厳重な議事規則によって行われた。名称は「東洋人学生会議」であったがドイツ人もアメリカ人も参加し、実質的には国際学生会議であった。平和問題、民族独立問題、宗教問題などあらゆる問題が取り上げられ、今から見ると相当程度の高いものであった。私は活発に発言したので次年度の副議長に選挙され、1927年の会議では次年度の議長に選挙された。
1928年4月16日にミツの父元田作之進(立教大総長)が死亡した。私どもは婚約関係をあまり延ばすのは不自然であることを悟り、同年9月15日テーラー・ホールのチャペルで結婚式を挙げた。
2.東条英機大将の弁護人補佐に
太平洋戦争は1945年に終わった。戦争中私は日本法理研究会に関係し、その縁故で会長塩野孝彦氏(元司法大臣)や副会長小野清一郎氏(東大名誉教授)の知遇を受けた。そのころから極東国際軍事裁判所が設置され、清瀬一郎氏が東条英機大将の弁護人となると同時に副団長となった。清瀬氏は私が盛んに英米法を振り回していたので、それを高く買ってくれていたようで、私に東条の補佐弁護人になれというので承諾した。私は国際正義を実現しようという大理想から、またクリスチャンとしての愛の精神から東条弁護を買ったのではなく、清瀬氏にやれと言われたからやっただけである。ただし日本外政協会調査局長兼務のままだった。
3.原子炉を立教大学に入手
昭和32年(1957)8月某日、立教大学理学部長中川重雄氏が杉浦、田島両教授と一緒に総長室を訪れ「米国聖公会で日本に原子炉を寄贈する計画があるそうだが立教大学へ貰って欲しい」という話をされた。
私はこの話を数日前にキープ協会のボール・ラッシュ氏から聞いていたから、全くの初耳ではなかった。私は原子炉なるものを全然知らない。そこで次の2点を質問した。原子炉は日本および立教大学にとって有用であるか、危険はないか。3教授の答えは、大いに有用である。注意すれば危険はない、であった。私の腹は即座に決まり、その時から子供がおもちゃを欲しがるように原子炉が欲しくなった。
早速八代理事長に頼み米国の事情を調べてもらった。すると、米国聖公会の総会に原子炉の件が議題に出たが反対が多いので委員付託となった。立教という名は全然でていないとのことだった。どうも「委員付託」は体裁よく黙殺する口実のような印象を受けた。
翌年読売新聞主催の原子力展覧会が日比谷で開催されることになり、オークリッジ原子力研究所長ウイリアム・ポラード博士が講師として来日することになった。オークリッジの友人牧師ロバート・マクレガー氏と米国聖公会代表のハイム氏に頼み、米国総裁主教宛に「ポラード氏を聖公会の委員に任命してくれ」と電報を打った。ポラード博士は来日すると「委員任命の辞令をうけた」といってくれた。その結果、原子炉が与えられ、5月13日横須賀市武山で開所式が催されたのだった。
松下 正寿 まつした まさとし | |
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『お茶の間の政治学』(本田書房、1967年)より | |
生年月日 | 1901年4月14日 |
出生地 | 日本 京都府京都市 |
没年月日 | 1986年12月24日(85歳没) |
出身校 | 立教大学商学部卒業 コロンビア大学 カールトン大学 |
前職 | 立教大学総長 |
所属政党 | (民主社会党→) 民社党 |
称号 | 正四位 勲二等旭日重光章 Ph.D(コロンビア大学) |
選挙区 | 東京都選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1968年7月8日 - 1974年7月7日 |
松下 正寿(松下 正壽[1]、まつした まさとし、1901年〈明治34年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉12月24日)は、日本の政治家、国際政治学者、弁護士。第5代・6代・7代立教大学総長、元参議院議員(1期)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)初代議長。
強固な反共主義者として知られ[2][3][4][5]、民社党系の核禁会議の結成に尽力した[6]。1970年代以降、文鮮明を師と仰ぎ[7]、世界平和教授アカデミー会長、世界日報論説委員、宗教新聞社社主を務めるなど統一教会の関連団体で要職を歴任した[8][9][10]。立教大学初代学長の元田作之進は義父[11]。
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