掲載時肩書 | 松下電器産業社長 |
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掲載期間 | 1956/08/19〜1956/08/26 |
出身地 | 和歌山県 |
生年月日 | 1894/11/27 |
掲載回数 | 8 回 |
執筆時年齢 | 62 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | 6歳で家破綻 |
入社 | 小僧、自転車屋 |
配偶者 | 見合・井植梅野 |
主な仕事 | 大阪電灯、電気用具自立、水道哲学、松下電器産業、米国見聞、フィリップ指導料3%、PHP,松下政経塾、経営芸術論、飛鳥保存 |
恩師・恩人 | 住友銀行 |
人脈 | 井植歳男(義弟)、高橋荒太郎、中川懐春(松下冷機)、松永安左エ門、吉田五十八、前田青邨 |
備考 | 旧家名門、「私の履歴書」2回登場 |
1894年〈明治27年〉11月27日 – 1989年〈平成元年〉4月27日)は和歌山県生まれ。実業家、発明家、著述家。パナソニック(旧社名:松下電気器具製作所、松下電器製作所、松下電器産業)を一代で築き上げた経営者である[2]。異名は「経営の神様」。その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。「私の履歴書」には唯一2回登場し、第1回は1956(S31)年8月19日~8月26日 8回連載時の肩書は社長(62歳)、2回目は1976(S51)年1月1日~1月31日の31回連載で肩書は、相談役(82歳)でした。
1.水道哲学
昭和5年(1930)、ランプ需要はますます増え、月20万個、電池は月百万個が売れてきた。しかし、私には商売に対して反省がわいてきた。いままでは世間の通年通りの商売をやって何とかうまくやってきたが、次第にこれでは物足りないという気持ちが湧いて出てきた。一体生産者の使命は何だろう、こんなことを連日夜遅くまで考えた結果、私なりの信念が生まれた。
それは簡単にいうと、この世の貧しさを克服することである。社会主義者みたいなことを言うようだが、例えば、水道の水はもとより価値のあるものだ。しかし道端の水道の水を人が飲んでも誰も咎めない。これは水が豊富だからだ。結局生産者はこの世に物資を満たし、不自由を無くすることが務めではないか。こう気付いた私は昭和7年(1932)の5月5日を会社の創業記念日とした。開業した大正7年(1918)から13年も経ってから新しい創業記念日を設けることは不思議に思われるかも知れないが、私が使命を知ったときとしてこの日を選んだのだ。そしてこの使命達成を250年目と決め、25年を一節、十節で完成することにした。つまりわれわれの活動は第一節でこの基礎を固めることだ。
2.経営力の価値
昭和27年(1952)10月18日にオランダ・フィリップス社との技術提携契約に調印した。その交渉で私は、「あなたの方からいかに立派な技術を持ってきても、経営を担当する松下電器に経営力がなかったら、決してうまく行かない。しかし、松下電器は、私自身が思うには、あなたの技術を十分に生かして、立派に成功させることのできる経営力を持っている。これを無料と評価してもらっては困る。これはあなた方の技術導入と同じように評価して欲しい」と言って、技術料4・5%に対して、経営指導料3%を認めさせたのである。
経営の価値を、私はフィリップス社との提携において認めさせたが、国内の事業においても認めてもらっていいと思う。
ところが、日本の経営というものを、正しく評価してロイヤリティーまでとってやるほどに考えないところに、今の日本産業界の一つの弱さというか、経営者の弱さがあるように思う。
3.企業の生きた研究開発
昭和26年(1951)1月、私が初めて渡米した時、米国で最新式だという乾電池の製造機を買ったが、1年後二度目の渡米である乾電池工場を見学して、先に買った最新式の機械が、その工場では一番古い機械になっているのを見て驚いた。一般に売っている機械は平凡なものであって、一流メーカーは自社の考案した機械を持ち、一般の機械業者が売る機械より数段優れていた。それを門外不出にして公開しない。
この事実を知って私は、自主的な気構えなしに教えを受けようとしたり、自らの意思なしに他人の力や金に頼るのは力の弱いものである。自らの考案、労作あらずして、本当の考案はありえないことを痛感した。自からの研究考案によって、本当に生きた仕事をしていきたい。こう思って、専門の機械製作工場を持った。これが、中央研究所であり、やがて新しい電化時代の大きな推進力となったのである。
4.関西で一日国会
昭和27年(1952)8月、私が提唱して志を同じくする者たちが集まり、新政治経済研究会が発足した。その1周年記念の講演会を、翌28年9月22日、大阪の朝日会館で開いた。
倉敷レイヨンの大原総一郎社長のさわやかな開会の辞で始まり、駒井鉄工所の駒井社長から1年間の経過報告と2年目のスローガン発表があった。続いて朝日新聞論説委員・土屋清氏の「こうして自立経済を」と題する講演の後、第二部で住友銀行元頭取の鈴木剛氏のユーモア豊かな司会で「美しく豊かな日本を」という題目で、“一日大臣”がそれぞれにその抱負を話した。いわば”一日国会“のようなものであるが、この日”一日大臣“に任じられた人々は、いずれも知名の高い人ばかり10人であった。
教養大臣は飯島幡司博士、電力大臣は関西電力の太田垣士郎社長、公安大臣は総同盟大阪府連合会の金正米吉会長、生産大臣は住友金属工業の日向方齊常務、技術大臣は東洋ゴム工業の富久力松社長、経営大臣は神戸大学の平井泰太郎教授、政党大臣は政治評論家の矢部貞治氏、婦人大臣は大阪ユネスコ協会副会長の村山リウ氏、無任所大臣は栗本鉄工所の栗本順三社長、そして観光大臣は私が担当した(肩書は全て当時、順不同)。こんな催しは戦後の日本では、初めてのことであろう。
5.国際万博で5千年後に開くタイム・カプセルを展示
昭和45年(1970)、日本万国博覧会が大阪の千里丘陵で開かれた。松下館では現代文化を5千年後の人々に伝えるタイム・カプセルを展示した。このカプセルは、もともと松下電器の創業50周年記念事業の一つとして、毎日新聞と共催で企画したものだが、世界中の人がやってくる万国博に展示することの意義を考えて、これを出品することにした。
5千年後というと、気の遠くなるような先のことだが、5千年間、現代文化を無傷のまま保存し伝えるということは、大変な技術力と知恵のいる仕事である。そのために、当時の日本の最高頭脳とされる諸先生のお力添え得ることにし、技術委員長は東京大学名誉教授・日本学術振興協会会長の茅誠司先生、選定委員長は大阪大学名誉教授の赤堀四郎先生にお願いした。そして、それぞれ技術委員会は23人、選定委員会は27人の先生方の指導の下に、現代文化を5千年後に伝える仕事に取り掛かったのである。
日本経済新聞の元文化部長の刀根浩一郎氏は松下幸之助さんをこう偲んでいました。
松下幸之助氏の場合、最初は62歳(昭和31年)の社長時代に8回の連載で終戦までを書いたものが短かったので、20年後の相談役時代(昭和51年1月)にその後の大企業への発展の苦労、努力、反省などを書いています。それでも語り尽くせなかったので、「20年後にもう一度、登場しても良いですよ」と言ったそうです。20年後というと102歳なのですが……と、担当記者がいうと「私は130歳まで死なない」と答えたそうですから、その元気さに仰天したというエピソードが残っています。
まつした こうのすけ 松下 幸之助 | |
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松下幸之助(1912年) | |
生誕 | 1894年11月27日 和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現・和歌山市禰宜) |
死没 | 1989年4月27日(94歳没) 大阪府守口市外島町(松下記念病院)[1] |
国籍 | 日本 |
職業 | 創業者松下電器産業, 実業家、発明家 |
著名な実績 | 松下電器産業の創設者 |
配偶者 | 松下むめの |
子供 | 1人 幸子(長女) |
親戚 | 松下正治(実業家、幸子の夫) 松下正幸(パナソニック副会長、孫) ヒロ松下(レーシングドライバー、孫) 関根大介(オープンドア創業者、曾孫) 井植歳男(三洋電機創業者、むめのの弟) 「#系譜」を参照 |
受賞 |
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画像外部リンク | |
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松下幸之助の署名(Wikipedia英語版) |
松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 - 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家、発明家、著述家。位階は正三位。
パナソニックホールディングスを一代で築き上げた経営者である[3]。異名は「経営の神様」。その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。