掲載時肩書 | 洋画家 |
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掲載期間 | 1960/08/12〜1960/09/05 |
出身地 | 鹿児島県 |
生年月日 | 1897/04/28 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 63 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | |
入社 | 太陽堂本社 |
配偶者 | 医師娘 |
主な仕事 | 音楽聴講、未来派画家、独学、7年間渡 仏、図案工、百姓、壁画の下書き、散水夫 |
恩師・恩人 | 山田耕筰・有島生馬 |
人脈 | 林武(小友)、夢二夫人、原田潤夫妻、今東光・日出海、宇野千代、藤島武二、 |
備考 | 破天荒 |
1897年(明治30年)4月28日 – 1978年(昭和53年)4月25日)は鹿児島県生まれ。洋画家。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。後期には版画や彫刻も手掛けた。雑貨のデザインや本の装釘も数多い。
画家の林武と小学校で同級だった。青山学院の中学5年のとき、竹久夢二夫人の店でアルバイトし、家に寄りつかない夢二の心変わりを夫人とともに複雑な心境となる。東郷氏は美男なため、大正4年ごろの伊豆大島で「夜這い」を経験し、少年から大人になったとか、本郷近くのカフェー巴里では久米正雄、豊島与志雄らと一緒に女給たちからよく持てたし遊んだとか、欧州船旅45日間でも、またパリでも女難にあったなど、いろいろ「色ざんげ」を披歴している。芸術的な考えなどの記載はなかった。
1.山田耕筰先生
私は中川一政の紹介でコントラバスの原田潤を知り、その原田に連れられて、山田耕筰先生にお目見えした。先生は私にひどく好意的で「君、仕事をするんなら、ここでやってもいいぜ、部屋ならいくらでもあるんだから」と言われ、天に昇る気持ちだった。
私はその翌日から、東京フィル・ハーモニー研究所の一室をアトリエに借り受けて、つかれたように絵を描き始めたのである。1年近くも山田先生にお世話になり、描いて描いて描きまくったので、足の踏み場もないくらい作品がたまってしまった。それを見た先生の口から個展の話が出て、日比谷画廊で、生まれて初めての個展を大正5年に開くことができた。その案内状に山田先生が紹介文を書いてくれたので、たいへん盛況となり、ありがたいことでした。
2.絵が質流れにあうと
本郷の湯島に在った質屋は我々の絵でも質草に取ってくれたのである。その条件というのが、金を貸すことは貸すが流したら店頭にその絵を飾るという妙な条件であった。つまり、不信行為をさらし者にするという意味だったのだろうが、貧乏しても、誇り高き芸術家の耐えられるところではなかった。
ときたま某作が店の鴨居に晒されるとどんな無理をしてでも元利合計耳をそろえるらしく、すぐ受けだされて姿を消すのが普通だった。
3.13年の在外生活経験
シベリヤ抑留生活やパリ留学など在外生活を13年経験した。3年のパリ留学では、留学費を夢のような楽しさで使い果たした。わずかばかりの母親からの仕送りで食いつないでいたのだが、関東大震災でそれも途絶えがちになった。セーヌの荷揚げ人足から、ガラス工場の図案工、百姓、壁画の下働き、公園の散水夫などを経験して、帰国までの数年を比較的安穏に過ごした。
東郷 青児 | |
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東郷青児 1954年(57歳)頃 | |
生誕 | 東郷 鉄春 1897年(明治30年)4月28日 鹿児島県鹿児島市稲荷馬場町 |
死没 | 1978年(昭和53年)4月25日 熊本県熊本市 |
墓地 | 豊島区の雑司ヶ谷霊園 |
国籍 | 日本 |
教育 | フランス国立高等美術学校卒業 |
著名な実績 | 洋画 |
受賞 | 二科賞(1916年) 第1回昭和洋画奨励賞(1928年) 日本芸術院賞(1957年) フランス芸術文化勲章オフィシエ(1969年) 勲三等旭日中綬章(1970年) 勲二等旭日重光章(1976年) 文化功労者(1978年) |
選出 | 二科会・日本芸術院 |
影響を受けた 芸術家 | 竹久夢二、有島生馬 |
東郷 青児(とうごう せいじ、1897年〈明治30年〉4月28日 - 1978年〈昭和53年〉4月25日)は、日本の洋画家。本名は東郷 鉄春。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた[1]。
独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある[誰によって?]。後期には版画や彫刻も手掛けた。雑貨のデザインや本の装釘も数多い。 なお、彼の画風は弟子にあたる安食一雄に受け継がれている[独自研究?]。ダンディで社交的であったことから女性スキャンダルも少なくなく、愛人のひとり、作家の宇野千代の『色ざんげ』は、東郷をモデルにしている。