末広恭雄 すえひろ やすお

学術

掲載時肩書東大名誉教授
掲載期間1975/08/23〜1975/09/16
出身地東京都
生年月日1904/06/04
掲載回数25 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他八高
入社水産試験場
配偶者見合い
主な仕事教会洗礼、魚解剖、アサリ中毒、作曲(東大)、皇太子(魚のご進講)、華厳滝調査、エジプト・魚のミイラ、潜水船探索
恩師雨宮育作
人脈堀内敬三(小)、田村虎蔵、寺田寅彦、渋沢敬三、高碕達之助、正力松太郎、金子直
備考クリスチャン、代々学者系
論評

1904年 6月4日 – 1988年7月14日)は東京生まれ。水産学者・随筆家・作曲家。農林省水産研究所技官、次いで東京大学農学部水産学科教授として魚類に関する水産学方面の研究を広く行ったことだけでなく、皇太子時代の平成天皇に生物学をたびたび御進講している。生前には一般向けの著作、随筆で「お魚博士」として知られた。作曲家としては山田耕筰の弟子であり、サトウハチローの詞による童謡『秋の子』がよく知られている。東京大学を定年退官した後は水族館京急油壺マリンパークの館長を務め、魚の行動を訓練によって巧みに演出する展示を数多く企画し、「サーカス水族館」としての地位を築き上げた。また、1970年代に行われたシーラカンス学術調査隊の総指揮を執った。

1.魚の解剖経験
昭和10年(1935)、私は農林省水産試験場に踏みとどまり、昼間はあくまで試験場の方針通りの仕事をし、夜の時間を使って、東大医学部解剖学の所属として、魚類の消化系の比較解剖の研究を行った。
 解剖学教室の夜、それは不気味であったが、各種の魚の腹を割いて、胃や腸を取り出し、次々比較してゆくと、それまでは全く想像もしなかった自然の巧みさがひしひしとと感じられるのだった。コイの一族には口に歯がないし、胃袋もないが、のどに頑丈な歯があること、天然のえさに恵まれない魚類には食いだめをするために大きな胃が与えられていることなど、次々面白い事実が究明されてきた。魚の腸の迂曲型も素晴らしく思えた。長い腸を狭い腹腔に手際よく収めるため、自然はその英知をいかんなく発揮することが分かって来た。

2.皇太子殿下へのご進講と思い出
昭和30年(1955)年秋、私は殿下に「魚学」をご指導申し上げることになった。毎週1回東宮御所に出向いて、魚学の講義と実験を行うというものであった。最初の1,2回は侍従の方が付き添っていたが、それ以後は12畳ほどの洋間に殿下と二人きりで、私は黒板を時々使いながら、机を前にして講義した。
 殿下は後年魚の脳の形態に興味を持たれ、さらに魚類の分類、つまり種の判別は外形だけではだめで、魚類の内部構造、例えば骨格や内臓器官の形態もキメ手になるという”大原理“と取り組まれるその第一歩として、ハゼ類の骨格の形態的研究に没頭された。5年間の参内のうち、一つのエピソードを提供する。
 昼食をご一緒:私のご進講が終わると正午近くなるので、しばしば殿下から昼食をご馳走になった。侍従さんもおらず、私は殿下と向かい合うような位置に座ってお食事をいただいた。何しろ相手が皇太子殿下なので、食事をしながら気楽に話すといっても、それはなかなか窮屈なものであった。おまけにお相伴のつもりか、殿下の愛犬のシェパードが極めて忠義面にテーブルの傍らに控えているので、食事もなかなかスムーズに喉を通らなかった。私に怪しい素振りもないはずなのに、この番犬は時々私の足の傍へ鼻をつけて、異様な唸り声を出すので相当閉口した。決して嚙みつかなかったが、いまでもつくづく恨めしい。

3.華厳の滝の学術調査
昭和32年(1957)の正月のことである。読売新聞社が新年の紙面を飾ろうと、この調査班を編成し参加した。その目的は、半ば凍りついた滝の落ち口から魚を落としてどのように傷つくかを調べたり、滝壺に潜水して深さを測ったり、水中の生物を採集したり、挙句の果てが投身自殺者の死体を滝壺の底から拾い集めて供養しようというもので、スリル満点の企画ではあった。
 さて2日目の未明から調査が開始されたが、私の役割は、日光の養鱒場その他から集めたニジマス、コイ、ウナギの活魚を滝の落とし口から落としていかに傷つくかを調べるもので、これは新聞社の狙いとしては投身自殺者の多いこの滝ゆえの”なぞらえ”に見えた。これらの魚類は滝口から流すと、滝水に乗って真っ逆さまに落ちていったが、下にいた調査班の人たちのタモですくわれ損傷の程度を詳しく調べると、どの魚も即死か瀕死の重傷だった。

末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 1988年7月14日)は、日本の水産学者随筆家作曲家

東京大学学生歌『足音を高めよ』を作曲。

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