木村義雄 きむら よしお

囲碁将棋

掲載時肩書将棋14世名人
掲載期間1957/12/11〜1957/12/31
出身地東京都
生年月日1905/02/21
掲載回数21 回
執筆時年齢52 歳
最終学歴
中学校
学歴その他慶応普退
入社外務省給仕
配偶者将棋好父の娘
主な仕事関根門下生、関根*坂田対局、報知入社で対局記事、チェス研究会、1年延期後22歳8段最高位、坂田氏と対局、名人位獲得
恩師・恩人関根金次郎、生駒粂蔵
人脈柳沢保恵伯爵、菊池寛後援、芳賀剛太郎、中島富治、升田後輩と大山に名人位を
備考妹・松井 須磨子の養女に
論評

1905年(明治38年)2月21日 – 1986年(昭和61年)11月17日)は東京生まれ。将棋棋士。十四世名人。浅草の将棋道場で指していたところを関根金次郎に見込まれ、1916年(大正5年)にその門下になる。1917年(大正6年)には関根の紹介で大和郡山柳沢家当主の柳沢保恵伯爵邸に書生として住み込み、慶應普通科に入学。1937年(昭和12年)、将棋大成会成立後も関西で孤塁を守っていた坂田との対戦を周囲の反対を押し切って実現させ、2月5日から11日にかけて京都南禅寺で対戦して勝利する。1938年(昭和13年)2月11日に、将棋大成会道場にて、名人就位式を実施する。なお、名人就位時、江戸時代の名人が詰将棋集を将軍に献上したことに倣い、記念の詰将棋を発表している。同1938年から、将棋大成会の会長となる。最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。

1.関根八段と坂田八段の大手合
大正7年(1918)は、私にとって終生忘れ難い記録がある。いうまでもなく東京の関根金次郎八段と大阪の坂田三吉八段で、当時としては互いに絶対的な勢力者であった。坂田八段の出身地は、奈良・大和郡山の在方で、柳沢保恵伯爵の旧領地だったから、早くから伯爵の知遇を受け、小野名人にも可愛がられた。この対局は名人から八段位を許された直後である。対局場所は、伯爵邸であった。
 坂田八段は当時50歳ぐらいの円熟盛り、実力においては棋界随一との定評があった。坂田来るとの報が、一度新聞紙上に伝わると、天下の同好者は、この一戦の噂で持ち切った。私は書生として、当然両先生対局の世話役になった。結果は、一週間がかりで第1局を坂田八段が勝った。第2局はこれも1週間がかりで、関根先生が見事に雪辱した。私は対局が終わったあと、伯爵のお口添えで坂田八段と飛車落ちで教えてもらった。苦戦しながらもやっと勝った。

2.実力名人制
昭和12年(1937)の実力名人制度は、棋道300年の伝統を打破した新制度である。もちろん重大案件として、相当の日時と、熟慮と、推敲とを経たことは想像に難くない。発表が不意で会ったことも当然である。
 これは関根名人と連盟顧問の中島寛治氏と、当時毎日新聞の学芸部長だった阿部真之助氏との間で、名人の発意という形で練られたらしい。連盟幹事長の私が相談を受けた時は、ほとんど決定的で、いやも応うもなかった。すなわち関根名人が70歳をもって引退し、同時に従来の名人一代制を解消し、新名人には時の最優勝者を推薦し、年期を定めて交代制にしようというのが骨子である。まさしく破天荒の新制度であった。

3.坂田氏との対局と名人位
昭和12年(1937)、私と坂田氏との対局実現は、名人戦の最中だけに、ずいぶん難しい問題になった。名人候補の私がもし負ければ、名人戦は吹っ飛ぶし、私自身も坂田氏に負けては、男として名人にはなれない。毎日新聞と大成会の協議では、名人戦の終わるまで、対局はまかりならぬとの決議もあった。私は、未知の人との対局こそ修業である。私にないものが坂田氏にあるかもしれない。この一番は久しい念願である。この将棋のためなら除名されても仕方がないと、修業一途に頑張った。
 若気のいたりとでもいうか、私はただ坂田氏と指したかった。得難い修業の機会だと思った。私の頑強ぶりに、新聞社側も、会の役員もついに決議を撤回した。この将棋は坂田氏の申し出通り、互いの持時間30時間、1極60時間となった。時間制始まって以来の長さで、1日大体8時間以上、連続7日間という空前の対局だった。私は幸いに勝った。正味56時間という対局時間だった。坂田翁のやつれが眼に見えて、私は正視することができなかった。
 この年の12月5日、6日が湯河原で花田氏と名人戦を戦い、熱戦の末勝ち、名人位を獲得した。一代制の名人から、実力制最初の名人になり、引継ぎの文書と新調の盤と駒とを一揃い授けられた。

木村 義雄(きむら よしお)

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