掲載時肩書 | 日本大学副学長 |
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掲載期間 | 1972/06/05〜1972/06/29 |
出身地 | 青森県 |
生年月日 | 1904/04/13 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 航空研究所 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 事故調査、宝塚通い、東大教授、世界一 長距離飛行、日大教授、カメラ、YS-11 |
恩師・恩人 | 小川太一郎、岩本周平 |
人脈 | 曾禰益、迫水久常、日高輝(四中)、斎藤茂太、堀越二郎、由比直一、源田実 |
備考 | クリスチャン |
1904年4月13日 – 1986年10月10日[1])は北海道生まれ。航空機設計者。航空機研究者。工学者。航空工学教育者。1924年(大正13年)4月、東京帝国大学工学部航空学科へ進学。この時、航空学科へ入学した10名の中には三菱重工業で九試単座戦闘機(九六艦戦)や十二試艦上戦闘機(零戦)の設計主務者となる堀越二郎、川崎航空機でキ10(九五戦)やキ48(九九双軽)、キ61(飛燕)の設計主務者となる土井武夫がいた。戦後は日本大学で後進の育成にあたり、1974年(昭和49年)から日本大学名誉教授。日大時代の1961年11月に初飛行ニュースを聞いた人力飛行機開発を学生たちとともに計画。1963年から所属する機械工学科航空専修コースの卒業研究テーマとして研究開発に着手し、日本初の飛行を実現させた。東京帝国大学教授、日本航空学会会長等を歴任。
1.初飛行成功のうれしさ
昭和12年(1937)4月に、試作航空機は完成した。それから初飛行までの2か月間は、苦しい日々の連続だった。私は整備の責任者となり、陸軍やガス電の工員を指揮して文字通り寝食を忘れて航研機と取り組んだ。エンジンの試運転をすると、たちまちパイプの継ぎ手から潤滑油が漏れ出す、そこを修理すると今度はラジエーターから水がポタポタたれる。実地の設計に対する経験のなさが次つぎを暴露されるのである。
昭和12年5月25日、遂に初飛行まで漕ぎつけた。この日は朝から何となく蒸し暑く、それが初飛行を前に緊張しきったわれわれの気持ちを、一層重々しくした。午後5時、全て準備完了、やがて航研機は、我々の気持ちとは反対に、いとも軽やかに滑走をはじめ、250mほどの滑走でフワリと浮かび上がった。目の前に起こった情景がまるで夢のようで、一瞬ぼんやりしたが、やがて、我々の苦心が遂に報われたのだという実感が湧いてきて、関係者一同は互いに抱き合って、喜びを分かち合った。
自分が苦心した飛行機が目の前で飛び上がったのは、この時が初めてで、私の生涯でこれほど感激した瞬間はなかったと思う。その晩は、学生時代クリスチャンで一滴も飲まなかった酒を痛飲したのだった。
2.飛行時間の世界記録達成
世界記録への挑戦は、2度失敗し、3度目の正直でやっと成功した。昭和13年(1938)5月13日、まれに見る静穏な五月晴れ、しかも航研機が3日間にわたって飛び続けている間、ずっとこの気象状態が保たれ。4日目に下り坂となった。その後私は毎年5月になると、航研機の記録飛行を思い出し、毎日の天候に気を付けているが、快晴無風の日が3日も続いたことは、あれ以来一度もない。13日の金曜は我々にとって、本当に幸運の日であった。
航研機が3日間にわたり、62時間も続けて飛行している間、地上で待機する我々も、のんびり寝てはいられなかった。1周400kmのコースなので、およそ二時間ごとに出発地点の木更津上空を通過する。私たちは、基地の近くの旅館で休んでいて、予定の時間が来ると飛行場へ出かけていく。昼は西方の上空を仰いでいると機影ポツリと見え始め、夜はまず爆音が聞こえ、機が飛行場上空に来て初めて機上燈火が目に入る。こうして規則正しい飛行が29回も続けられ、ついに世界記録樹立の悲願が達せられたのである。当時フランスのブレリオ機が保持していた記録を1000キロも破る新記録であった。
3.国産中型輸送機(YS-11)の開発
昭和32年(1957)には、通産省が国産中型輸送機の開発に踏み切り、その補助金と民間企業からの出資で輸送機設計研究会が設立されて、私はその技術委員長になった。機名のYSは輸送機と設計のローマ字の頭文字、11は機体とエンジンがそれぞれ第一号という意味である。
この基礎設計のスタッフは、私の他は堀越二郎、土井武夫、菊原静男、太田稔の諸君で、戦時中、幾多の傑作機を設計したそうそうたるメンバーだったから、議論は激しかった。
木村秀政 | |
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木村秀政(1953年) | |
生誕 | 1904年4月13日 北海道 |
死没 | 1986年10月10日(82歳没) |
墓地 | 青山霊園 |
国籍 | 日本 |
教育 | 東京帝国大学大学院 |
業績 | |
専門分野 | 航空工学 |
勤務先 | 航空研究所、東京帝国大学、日本大学 |
設計 | A-26(キ77) |
受賞歴 | ポール・ティサンディエ賞、勲二等旭日重光章 |
木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年〈明治37年〉4月13日 - 1986年〈昭和61年〉10月10日[1])は、日本の航空機設計者。航空機研究者。工学者。航空工学教育者。東京帝国大学教授、日本航空学会会長等を歴任。戦後は日本大学で後進の育成にあたり、1974年(昭和49年)から日本大学名誉教授。
日大時代の1961年11月に初飛行ニュースを聞いた人力飛行機開発を学生たちとともに計画。1963年から所属する機械工学科航空専修コースの卒業研究テーマとして研究開発に着手し、日本初の飛行を実現させた。