木川田一隆 きがわだ かずたか

電気・ガス

掲載時肩書東京電力社長
掲載期間1970/01/01〜1970/01/29
出身地福島県梁川
生年月日1899/08/23
掲載回数29 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他山形高校
入社東京電燈
配偶者記載なし
主な仕事関電配電会社、文書、秘書、企画、労務経験、電力事業再編成手伝い、中央電力協議会、経済同友会代表、東電学園
恩師・恩人河合栄治郎、菅礼之助
人脈小林一三・菅礼之助・新井章治・青木均一(東電)、芦原義重、横山通夫、松永安左衛門
備考父・医師 、母・神官娘
論評

1899年8月23日 – 1977年3月4日)は福島県生まれ。1950年代から1960年代にかけて活躍した日本の実業家。東京電力社長や、経済同友会代表幹事を歴任した。「企業の社会的責任」を唱導した、哲人的財界人として名を残している。1974年電気料金値上げに対する不払い運動に見舞われたが、参議院議員市川房枝の要請を受け、企業としての政治献金取り止めの英断を下した。現実の中で理想の実現にたゆまぬ努力を続けた木川田の姿勢に、ある米国紙は「Business Statesman」と称えた。氏はこの「履歴書」で戦後の電力再編成の舞台裏推移を詳しく書いてくれていた。

1.東京電燈の調査部企画課
わたくしは大正15年(1926)に入社して以来、10年間にわたって調査の仕事に立てこもった。もともとわたくしは文章を書くことが好きだったので、恵まれた職場だった。このころの調査部は、今でいう企画の仕事も含まれていた。企画では一つの課題に、必ず2つか3つの案が要求された。たとえば危機に面した事業再建のためには、地域の譲渡も計画された。千葉地域を京成電車に、浜松地域を静岡市に譲渡する原案作成にも参加した。従って、資産評価理論の勉強もしなければならなかった。いずれにしろ、現実の企画の仕事は、あらゆる角度からのものの見方を強いられることであり、またそれには条件と資料が揃わなければならなかった。幼稚な観念論だけでなく、具体的な筋道が通っていなければいけなかった。

2.電力再編成は配電9社と送電1社の分離に
戦後、怒涛のように押し寄せてきたのは労働組合運動である。そのリーダーとして我々の前に立ちはだかったのは電産(日本電気産業労働組合)だった。電産は敗戦の翌年、電力事業の民主化を取り上げ、全国発送電配電事業の一本化を会社側に要求してきた。
 しかしわたくしは、日本の将来を思うとき、国民経済の発展の基盤となり、日常生活に密着する大切な電気事業を全国一社化し、または国有化の方向に進むことは民主化の大原則に反するばかりでなく、自由経済の根本精神を否定するものだと信じて反対だった。昭和23年(1948)の正月に行ったマッカーサー元帥の年頭の辞も、同じような主旨であったので、わが意を得たものとして満足した。
 そこで早速同志を糾合して、密かに、自由競争の原則に立つ私企業形体の地域分割案の理論と具体策の立案にとりかかった。同僚常務の岡次郎君や田中直治郎君らは即座に賛意を示し、社内の協力体制は確立された。そして業界では、現在関西電力の社長をしている芦原重義君や、現在中部電力会長をしている横山道夫君などに呼びかけたところ、響きに応ずるように直ちに共鳴してくれた。
 このころ松永安左エ門翁が、独自な立場から、電力再編問題に乗り出されていた。翁は配電を9電力案として提案し、吉田内閣に答申された。翁は機を逸せず「占領軍の説得」ということに方針を定められた。一時はGHQと険悪な雲行きとなったが、遂にGHQも了承、「松永案による電力再編成」の指示が出された。しかしGHQに対する松永翁の了解運動は相当強引なものであった。単身乗り込んだこともあったし、英語の話せる高井社長らをお供にすることもあった。文書の陳情は再三にわたった。わたくしは秘書役みたいな格好で、いちいち意見を聞かれ、目を通された。わたくしは日に幾度も松永事務所に呼びつけられ、夜を徹した。「電力の鬼」といわれる翁の面目躍如たるものがあった。
 そして昭和25年11月22日、ポツダム政令による「電気事業再編成令」と「公益事業令」が出された。

3.再編成計画の実行
昭和26年(1951)1月8日、日発と配電会社は、公益事業委員会から再編成計画書を提出するよう指令された。両者は直ちに再編成中央協議会と幹事会を設け、わたくしは幹事会の幹事長役を仰せつかった。
 新会社設立は同年5月1日と決まった。これは大変なことである。全国の電力設備を9つの新会社に分割し、新会社設立事務のすべてを4か月ぐらいの短時日に纏めあげようというのである。難問は山積していたが、その中でも新会社に対する日発と配電の株式比率や、日発の保有する電源等の設備の新会社への帰属問題は、その最たるものであった。
 まず株式の比率は、株式の利害にも関係するし、新会社に対する影響力を左右することもあって、配電会社の間では意見の一致を見たが、日発との関係は鋭く対立した。これは自主解決がつかず、公益委の仲介で、日発株主には特別な清算分配金を交付することを条件として1対1の配電案によることとなった。
 次に日発の保有する電源等の設備の9会社への帰属については、水力発電所や火力発電所等の所有が自社のものとなるか他社のものになるかによって今後の経営上の大きな影響があるので、今度は配電会社間の調整がつかず、容易に結論に達しなかった。しかし、関西配電の芦原重義君などとも相談して、関東配電や関西配電など”大国”の譲歩で、ようやく話し合いがついた。わたくしが最も苦労した問題でした。

4.趣味は釣り
わたくしは、子供の時から釣りが好きだった。だから労働争議やあまりにも激しい仕事が続いて、心のやり場に困り、自然の中に救いを求めようとした。川釣りに始まったわたくしには、いつの間にか、すっかり磯釣りに浮き身をやつすようになった。4kg級の石鯛やいずすみの強引な引き込みは、川釣りでは夢想もできなかった豪快さがある。石鯛は磯随一の豪のもので、さざえを丸ごと飲み込んで遁走する怪力の大物を、がっぷりと鉤に合わせてからタマ(漁網)に収めるまでの人と魚との闘争の激しさは、釣り魚界広しといえどもこれに勝るものはなかろうと思われる。
 大物の記録といえば、10年ほど前、伊豆伊東の沖合の「尾根」の島で、5.4kgの石鯛を釣り上げたことがある。竿はきしみにきしんで、暴れまわる巨漢と闘うこと数十分、やっとタマに取り込んだ時は、釣友とともに万歳を叫ぶほどの感動だった。わたくしの石鯛の最高記録である。祈念のために亡くなられた池田勇人氏に差し上げたが、残念ながら、どうしても、わたくしが釣ったと信用してくれずじまいであった。

木川田 一隆

木川田 一隆(きがわだ かずたか、1899年8月23日1977年3月4日)は、1950年代から1960年代にかけて活躍した日本の実業家東京電力社長や、経済同友会代表幹事(1960年1962年(複数代表幹事制)、1963年1975年)を歴任した。「企業の社会的責任」を唱導した、哲人的財界人として名を残している。

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